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「上位審級なしに生きることは可能か」という問いの最も過激化したかたちは次のような問いになる。「人を殺すことは可能か?」
2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その10)をご紹介する。
どおぞ。
10・異邦人の倫理
「上位審級なしに生きることは可能か」という問いの最も過激化したかたちは次のような問いになる。「人を殺すことは可能か?」
人を殺すこと、それは「私」の自由の究極の発現形式、「私」の主体的可能性の限界である。だとすれば、上位審級なき世界での人間の行動準則を探求するカミュが「どういう場合に私は他者を殺すことができるのか(あるいはできないのか)」という問いを切実な思想的問いとして引き受けたのはことの必然である。もし「人を殺してもよい条件」というものを実定的に列挙しうるのであれば、それが「神なき時代」における正義と倫理の出発点となるだろう。だが果たして「人を殺してもよい条件」というものがありうるのだろうか。
『異邦人』という作品はこの問いに対するカミュの回答の試みであると私たちは考える。私たちは以下において、神なき時代の倫理を求めるカミュの悪戦の記録として『異邦人』というテクストを読んでみたいと思う。
すでに多くの批評家が指摘してきたように、この小説の中で主人公がもっとも頻繁に使う言葉は「それには何の意味もない」(Cela ne veut rien dire)「私には分からない」(Je ne sais pas)「どちらでも同じだ」(Cela m'est égal)である。事物にはそれぞれに固有の意味があること、ある事物と他の事物のあいだには差異があること、そのような固有の意味や差異を保証する局外的、中立的な判定基準があること、これを主人公は一貫して否定する。差異づけを拒み、すべての価値を平準化し、ある種の「平衡状態」を実現しようとする強い意志、「差異」や「位階」を無化しようとする力がこの小説の全編を貫いていると私たちは考える。この「無差異」(indifference)をめざす力を私たちはとりあえず「均衡の原理」と名づけることにする。主人公ムルソーを海岸での殺人へと導くのはこの原理である。
ムルソーは友人たち(レイモン、マッソン)と海岸へゆき、そこでレイモンに恨みをもつアラブ人のグループと三度にわたって、水準の異なる暴力行使を経験する。そのすべての機会において、彼らはつねにひとつの行動準則に忠実である。それは、暴力の行使に際しては条件の均衡を期すということである。
最初の対決ではフランス人三人とアラブ人二人が遭遇する。この人数上の不均衡はムルソーを戦闘要員からはずさすことで解決される。
「レイモンは言った。『一悶着起きるようだったら、マソン、お前二人目のやつをやってくれ。俺はあいつを引き受ける。ムルソー、あんたは別にもう一人現れたら、そいつをやってくれ。」(46)
結果は二対二の「平等な」殴り合いになる。フランス人たちは素手の戦いでは圧勝するが、ナイフを持ち出したアラブ人によってレイモンが腕を剔られ、口元を切り裂かれる。
この「不均衡」の解消のためには二度目の遭遇戦が必然的に要請される。レイモンはナイフに対抗するために拳銃を持ち出す。人数は(今度はマソンが不在のために)二対二と均衡しているが、ナイフと拳銃の殺傷能力差による「不均衡」が生じる。この「不均衡是正」のために、臨戦態勢にあるレイモンに対してムルソーは三度にわたって「戦闘条件の均衡化」提案を申し出る。
最初にムルソーは「むこうがまだなにも言い出さないうちに、いきなり撃つのは汚い」といっていきり立つレイモンに先制攻撃の不当であることを説得する。では、罵倒の応酬になったら撃ってもいいのかと訊ねるレイモンに、ムルソーは「ナイフを抜いたら撃ってもいい」と「正当防衛」の名分を求める。さらに緊張が増すと、「いや、男同士素手でやれ。君の拳銃はぼくが預かる。もし、他のやつが出てきたり、あいつがナイフを抜いたら、ぼくが撃つ」(47)と言ってムルソーは三度目の条件の吊り上げを行う。結果的に、アラブ人はひき揚げ、ことなきを得る。一度目の遭遇では負傷者が出たが、二度目はムルソーの必死の周旋のおかげで誰も傷つかずにすんだ。ここまでは、ムルソーの奉じる「均衡の原則」は暴力抑止にたしかに一定の効果を発揮したのである。
しかし、これで終わってはレイモンの負傷という「不均衡」が解消されない。この居心地の悪さがムルソーを海岸へ誘い出す。ムルソーは無意識のまま拳銃を携行し、無意識のままアラブ人がいる可能性の高い場所へと近づいて行く。そして、三度目の遭遇戦が行われる。ムルソーは一対一でアラブ人と遭遇する。アラブ人はナイフを抜く。二度目の遭遇に際してムルソー自身が吊り上げた「条件」がこのときにクリアされてしまう。人数は拮抗し、攻撃の意思は予告され、武器は選ばれた。「均衡の達成」をもとめる力がムルソーに銃を撃つことを要請する。ムルソーはまさに「均衡の原理」によってアラブ人殺害を余儀なくされるのである。
『異邦人』の世界は「均衡の原理」に支配されていると私たちは考える。それは経験的に、それが彼らの知る効果的な唯一の暴力制御の方法であるからだ。均衡さえ確保するならば、暴力は免責される。自分の死を代償とするならば、人を殺すことは正当化される。これが「異邦人の倫理」である。これはまたこの時期におけるアルベール・カミュ自身の現実的な行動準則であったと私たちは考える。
【引用出典】
(46) Camus, L'étranger, in Théâtre, Récits, Nouvelles, Gallimard, 1962, p.1166
(47) Ibid.