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みずからの死を代償として与える用意のあるものはひとを殺すことができる。私たちはこれを「異邦人の倫理」と呼ぶ。
2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その11)をご紹介する。
どおぞ。
11.抵抗の理論と粛清の理論
みずからの死を代償として与える用意のあるものはひとを殺すことができる。私たちはこれを「異邦人の倫理」と呼ぶ。この倫理は小説世界にとどまらず、カミュにとっては政治的状況への自身のコミットメントを支える根本原理であった。むしろ、彼のレジスタンスへの関与(それは要するに「敵を殺す」ということだ)を論理的に正当化するためには、『異邦人』におけるエクリチュールの訓練がなくてはすまされなかったとさえ言えるかも知れない。
1942年、『異邦人』の完成とほぼ同時期にカミュはレジスタンスの地下出版活動に加わる。『異邦人』が空前のベストセラーとなり、カミュが時代の寵児となったまさにその時期に、カミュは非合法活動に決定的なしかたで参加しはじめるのである。ベストセラー作家になり、注目を浴びるようになったので、非合法活動から距離を置くようになったというのなら話は分かる。そうではなく事態は逆なのだ。だとすれば、『異邦人』の完成をまって始めて、「政治的暴力を正当化する思想」がカミュのうちでかたちをとったというふうに考えることはできないだろうか。
『異邦人』完成の直後、ドイツ占領下で地下出版されたレジスタンス文書『ドイツの友人への手紙』の中で匿名の書き手はこう書いた。
「私たちには長い迂回が必要だった。私たちには長い遅延が必要だった。それは真理への気遣いが知性に強い、友情への気遣いが感情に強いた迂回であった。この迂回が正義を護持し、みずからに問いかけ続けた側の人間たちに理ありとした。この迂回は高くついた。私たちはそれを屈辱として、沈黙として、苦痛として、監獄として、処刑の朝として、断念として、別離として、日々の飢餓として、やせこけた子供たちとして、そしてなによりも強いられた改悛として、支払った。それは順序として正しかった。(Cela tait dans l'ordre.)
そういった時間があったからこそ、私たちは人間を殺す権利が自分たちにはあるかどうか、この世界の暴虐にさらなる暴虐を付け加えることが私たちに許されるかどうかを知ることができたからである。」(48)
ここでいう「長い迂回」にはドイツ占領下におけるフランス人同胞の受難だけでなく、おそらく『異邦人』の完成も含まれている。ともあれ、犠牲者の苦しみがドイツ人を殺すことを正当化し、フランス人が「汚れなき手」で戦争をすることを可能にするとカミュは書いている。これは死の相称性、暴力の相互性に基づいて正義を計量する「均衡の原理」に基づく「異邦人の倫理」そのものである。
戦争には『異邦人』の「判事」に相当するような上位の裁定者は存在しない。それはある意味では徹底的に「平等性」が貫徹する領域である。だとすれば、「異邦人の倫理」はレジスタンス運動を論理的に正当化し、愛国的情熱を高揚させるという政治的目的に関する限り、きわめて効果的なプロパガンダだったはずである。事実、侵略者に対するフランス人の倫理的優位を保証し、抵抗に理ありとしたこのテクストは第二次大戦の軍事的勝利に少なからぬ貢献を果たしたのである。(フランス政府は戦後、カミュのレジスタンスの功績に対して叙勲の意を表した。)カミュが戦後の一時期に享受した神話的威信はこの軍事的功績に負っている。
しかし「被害者」は「汚れなき手」をもってひとを殺す権利があるとするこの「均衡の原理」をおしすすめると、論理的にはあらゆる「報復」が正当化されることになりはすまいか。「異邦人の倫理」は戦争がフランスの勝利のうちに終わったときに深刻な難問に遭遇することになった。それは「粛清」の問題である。
戦後のフランスでは対独協力者、戦争責任者の「粛清」がすさまじい暴力をふるった。フランス現代史の「恥部」ともいえるこの戦後の粛清事件についてはほとんど公式資料が存在しないが、数千人のフランス市民が裁判ぬきで処刑された。カミュはレジスタンス活動からの文脈上、戦争責任を追求し、均衡の回復を要求すべき立場にあった。アンリ・ベローという右翼のジャーナリストが戦時中の対独協力の罪で死刑宣告を受けたとき、慈悲を訴えるフランソワ・モーリヤックと正義を求めるカミュは激しい論争を展開した。
「粛清が話題になるたびに、私は正義について語り、モーリヤック氏は慈悲について語る」という言葉で始まるこの論説の中でカミュはつぎのように厳しい宣告を記した。
「私が氏に言いたいのは、私たちの国が死に至る二つの道があるということである。(・・・)それは憎しみの道と赦しの道である。私にはいずれ劣らず有害なものに思われる。私は憎しみが好きなわけではない。しかし赦しがそれよりましとも思えない。いま赦しを語ることは侮辱しているのと変わらないだろう。いずれにせよ、私には赦す権利がない。」(49)
カミュのこの厳しい態度はしかし長くは続かなかった。同じ月の25日、弁護の余地のない対独協力者であったロベール・ブラジャックの助命嘆願書にアルベール・カミュは逡巡の末、署名している。ブラジャックの助命嘆願書への署名をカミュに依頼しに来たマルセル・エメに対してカミュは翌日苦しい同意の返事をしている。
「あなたのせいで私は寝苦しい一夜を過ごすことになりました。結局、私はあなたが要請してきた署名を今日送ることにしました。(...)私はこれまでずっと死刑宣告というものを激しく憎んできました。ですから、私は少なくとも一個人としては死刑宣告には、棄権を通じてさえ、加担しまいと決意したのです。」(50)
同じく対独協力者であったリュシアン・ルバテの減刑嘆願に際してもカミュは同じ趣旨のことを書いている。
「私はこれまで彼のような人間と徹底的に戦って来ました。しかし今、私はそれよりもさらに強い衝動に突き動かされて、死刑宣告された彼の減刑を求めます。一人の人間を殺すことよりも、彼におのれの過ちを省察する機会を与えることのほうがより緊急であり、範例的であると考えるからです。(・・・)けれどもこれが私にとって決して容易な決断ではなかったことはご理解下さい。」(51)
カミュをとらえた「さらに強い衝動」とは、これもまた「異邦人の倫理」のうちにすでに含まれていたものである。レジスタンスにおいては表面化しなかったある問題が戦後粛清に直面して前景化してきたのである。
「均衡の原理」に基づく「異邦人の倫理」は「上位審級なき世界において倫理的に生きる」ためにカミュが工作した理論的装置であった。レジスタンス活動には「均衡の原理」が貫徹していた。敵の生命を要求するためには、まず自分自身の生命を賭金に差し出す必要があったからである。
しかし、対独協力者の粛清は「均衡の回復」を求めているように見えているけれど、実体はまるで別ものである。死刑宣告はフランスの国権を背景にした「裁判」である。それは上位審級から下される裁定である。
経験的に言って、「父」はしばしば「同胞」や「等格者」のような顔をして登場する。「父」はあたかも傷つけられ、失われた「均衡の回復」を求めるかのように裁きを求める。だが、それこそ詐術なのだ。「社会は償いを求めている」という常套句を「父」が口にするとき、償いを求めている「当事者」はじつは存在しないからである。「社会」というのは、自分自身は傷つくことも、何かを失うこともない「父」が高みから裁きの暴力を下すときに用いる戦略的な虚辞にすぎない。ムルソーは獄中でこう回想している。
「新聞はしばしば社会に対する借り(une dette qui était due à la société) について語っている。新聞によれば、その借りは償わなければならないのだそうだ。けれどもこれが何を意味するのか私にはぜんぜん分からない。」(52)
負債とその精算が果たしうるのは、等格者たちの間、「ドイツの一友人と私」の間でだけだ。上位審級なき世界でのみ、均衡の原理は倫理の根拠たりうるのである。「均衡の回復」「負債の支払い」を「父」が求めるのは正義の実現のためではない。正義と倫理の裁定権を独占するためである。まさにそのような擬制と戦うためにカミュは彼の思想を構築してきたのである。
粛清に直面したときのこの一時的なダッチロールはカミュに「異邦人の倫理」の脆弱性についてひとつのことを教えた。それは「均衡の原理」だけでは倫理の基礎づけには不十分だということである。「均衡の原理」にもう一つ条件を付け加えなければ、倫理の立場は「同胞の顔をした父」「受難者のふりをする強権者」「弱者の味方のふりをする三百代言」によってたやすく略取されてしまうだろう。
いかにして「傷つけられた同胞のふりをする父」と「傷つけられた同胞」を判別するか、カミュはこの問いをそれ以後考え続けた。1940-60年代のフランスの左翼知識人たちが「犠牲を強いられたものには報復の権利がある」という単純なロジックによりかかって、うちそろって「階級闘争・民族解放闘争」に無条件の連帯を約束する中で、ひとりカミュは報復の応酬は憎しみの増殖にしか至りつかないことを指摘し、孤立を強いられた。しかし、その思想的にきわめて不遇であった時代に、カミュの中では倫理の基礎づけに関するより精緻な理論が熟成していったのである。
【引用出典】
(48) Camus, Lettres à un ami allemand, in Essais, p.223
(49) Camus, Combat, 11 janvier, 1945
(50) Olivier Todd, Albert Camus, une vie, Gallimard, 1996, p.374
(51) Ibid., p.375
(52) Camus, L'étranger, p.1202