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三島由紀夫が死んで今年の11月で50年になる。その前年、1969年の5月に三島は東大の駒場キャンパスの900番教室で単身東大全共闘との「討論」に臨んだ。
2020年3月9日の内田樹さんの論考「三島由紀夫対東大全共闘から50年」をご紹介する。
どおぞ。
三島由紀夫が死んで今年の11月で50年になる。その前年、1969年の5月に三島は東大の駒場キャンパスの900番教室で単身東大全共闘との「討論」に臨んだ。逸失していたと思われていたその時の映像が最近TBSの倉庫から発見された。それを再編集して、関係者たちのコメントを付したものが劇場公開されることになった。
69年の5月に私はお茶の水の予備校に通っていた。「三島が駒場に乗り込んだ」ということは予備校でもすぐに話題になった。一月後に新潮社から出た討論本をむさぼるように読み「君たちが一言『天皇』と言えば、私は諸君と共闘する用意がある」という三島の驚くべき発言はそこで知った。でも、18歳の私にはその三島の真意が奈辺にあるのかがわからなかった。
それからずいぶん経って、日本未公開のポール・シュレイダーの『ミシマ』を観た。映画のクライマックスは駒場での東大全共闘との討論の場面だった。緒形拳演じる三島は黒いポロシャツを着て、ひっきりなしに煙草をふかしながら、大声で笑っていた。どうしてこんなに作為的なほど笑うのか、映画を観ているときにはよく意味が分からなかった。
実際の映像でも三島はよく笑っていた。そしてなぜか終始上機嫌だった。学生たちのふっかける衒学的な、あるいは支離滅裂な議論をまっすぐに受け止めて、一つ一つ丁寧に答えようとしていた。言葉尻をとらえて、論理矛盾を衝いたり、無知を論ったりすることを三島は最後までしていない。三島の雄弁術をもってすればできたはずのことを三島はずっと自制していた。そのことに途中で気がついた。学生たちは三島を「論破」するつもりで招いたのかも知れないが、三島にとってこれは「論争」ではなかった。
なぜ千人の過激派学生という「敵」を前にして三島由紀夫があれほど上機嫌だったのか。それを考えているうちに、以前に自衛隊の人から聞いた話を思い出した。
三島は楯の会の若者を引き連れて何度か陸上自衛隊に体験入隊している。自衛隊上層部にも三島の「ファン」は多かった。そして、実際に酔余の勢いに「三島さんが立つ時は、われわれも立ちます」と口走った軽率な幹部がいたそうである。三島の国士ぶりへの敬意を表したつもりだったのだろうが、三島はそれを本気にした・・・というのがその陸自元幹部の話だった。
たしかにそういうことがあってもおかしくはない。
自衛隊の蜂起の可能性という補助線を引くと、駒場での三島の上機嫌ぶりの理由がわかる。
彼は近い未来に楯の会によるクーデタを計画していた。そして、それには陸自の一部が呼応する(と三島は信じていた)。
もちろん単発の、計画性のないクーデタだから、破綻することは眼に見えている。三島はその時は死ぬつもりでいたのだと思う。けれども、三島たちの蹶起は栄華の夢に耽っている日本国民の心胆を寒からしめるだろう。それくらいの衝撃は与えられるはずだ。
そして、三島はそのクーデタに加わる同志を「リクルート」するために東大に乗り込んできたのである。そう考えると、この時の三島の学生たちに対する過剰なまでにフレンドリーな態度の底意がわかる。事実、三島はこの討論本の「あとがき」にこう書いている。
「私の考へる革新とは、徹底的な論理性を政治に対して厳しく要求すると共に、民族的心性(ゲミュート)の非論理性非合理性は文化の母胎であるから、(...)この非論理性非合理性の源泉を、天皇概念に集中することであった。」
三島は、全共闘の学生たちのうちには、「徹底的な論理性」と「民族的心性の非論理性・非合理性」を併せ持った「革命戦士」が10人、せめて5人はいるのではないか、そう思ったのである。そして、そのselected few に向かって三島は語りかけた。
だから、この時の三島の目標は「この人となら一緒に死んでもいい」という欲望を学生たちの間にかき立てることだった。千人の「敵」の前に、鷹揚として、笑顔を絶やさず、胆力とユーモアと、深い包容力を持つ政治的カリスマとして登場すること、それが三島の駒場での一世一代のミッションだった。
そういう仮説に基づいて観るとまことに味わい深い一作である。