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言論の自由というのは「誰でも好きなことを言っていい。それが虚偽でも、人を傷つけるものでも、人がたいせつにしているものを汚すものでも、何でも表現する権利がある」というような底の抜けた話ではありません。言論の自由が存在する社会は、それが存在しない社会よりも市民が成熟するチャンスが多いから言論の自由は守られなければならないというのが僕の考えです。
2020年3月25日の内田樹さんの論考「「朝鮮新報」のインタビュー」(後編)をご紹介する。
どおぞ。
―この空気を換えるためにはどうすれば良いとお考えですか?
かつて60年安保闘争で国論が二分したあと、岸信介の後を引き継いだ池田勇人は「所得倍増」と「寛容と忍耐」をスローガンに掲げました。「所得倍増」は政治的意見の違いにかかわらずすべての日本人にとって望ましいことでした。「寛容と忍耐」は同じ社会を構成している中には、共感も理解もしがたい隣人たちも含まれているけれど、それに耐えようと。不愉快な隣人とも"気まずく"共生しよう、と呼びかけた。
僕はこのスローガンの選択は適切だったと思います。実際に、この路線に従って日本は歴史的な高度成長を遂げたのですから。今の日本は60年安保闘争以後最も深く国民が分断されています。ですから、必要なのはもう一度「寛容と忍耐」を掲げることだと思います。
―昨年、記事中で「韓国なんていらない」などとヘイトスピーチを行った『週刊ポスト』の版元の小学館に対し、執筆拒否を宣言されました。
小学館のような大きな出版社には、国民の間のコミュニケーションのプラットフォームを形成する社会的な責務があります。小さな出版社でしたら、政治的に偏向した言説を流布することも許されるでしょうけれど、小学館のような規模の出版社は国民間の対話の場を設定することがその社会的責務です。さまざまな論に対話の場を提供することが仕事であって、国民間にあえて分断を持ち込み、国民の一部を排除し迫害するような行為は許されません。小学館にはその社会的責任の自覚がありませんでした。メディアの劣化がここまで進んだことに僕は愕然としています。
―表現の自由についてのお考えは?
何のための表現の自由なのか? それを考えることが大切だと思います。言論の自由というのは「誰でも好きなことを言っていい。それが虚偽でも、人を傷つけるものでも、人がたいせつにしているものを汚すものでも、何でも表現する権利がある」というような底の抜けた話ではありません。言論の自由が存在する社会は、それが存在しない社会よりも市民が成熟するチャンスが多いから言論の自由は守られなければならないというのが僕の考えです。
何らかの公的機関や誰か見識にすぐれた「判定者」がいて、その機関なり個人なりが専一的に「表現して良いものと悪いもの」を判定識別するということになったら、市民たちは自分の判断力を高める必要がなくなる。でも、ものごとの良否の判断を他人に委ねてしまった人間はもう決して成熟することができません。
僕が言論の自由を守ろうとするのは、市民たちの知性的・感性的な成熟を阻害して、幼児のままにとどめおこうとする人たちに抗うためです。市民が全員、おのれの判断を放棄し、上位者にものごとの正否理非の判断を委ねても気にしない幼児であれば、管理はしやすいかもしれませんが、そんな集団は遠からず滅亡します。
表現の自由というのは単なる原理原則ではなく、具体的な成果をめざす遂行的な装置です。それによって市民たちの成熟を支援し、集団をより強くより豊かなものにするための仕組みです。ですから、何のための表現の自由なのかということを考えもせずに、ただそのつど自分に都合のよいスローガンとして「表現の自由」を引き合いに出す人間も、「お上」に表現の適否の判断を任せろという人間も、僕はひとしく信用しません。
―今後、友好的な関係を築いていくためには何が必要でしょうか?
日本人の多くが近現代の歴史をほとんど学んでいないということが問題だと思います。朝鮮半島の植民地化とその支配の歴史的事実について多くの日本人は何も知りません。少なくとも江華島条約からあと日韓の150年の歴史に関しては最低限の事実を知る必要があると思います。
徴用工問題や慰安婦問題などで議論が行われていますが、政治家もメディアも65年の日韓基本条約が議論の起点になっていると言うだけで、それより以前には遡らない。
でも、はるか以前から解決できなかった問題が65年時点でも解決できずに「棚上げ」されたものがまた蒸し返されたということです。解決できなかった同じ難問だからこそ、間歇的に甦ってくる。それを「解決済みだ」と言い切って終わりというのは単なる歴史についての無知に過ぎません。解決の難しい難問は難問として受け入れて、長い時間をかけて、両国の衆知を集めて議論し続けるしかない。解きがたい問題については、「どうしてこんなに解きがたいのか」というところまで時間を遡るしかありません。
日韓の歴史的な関わりに関する知識では、平均的には韓国の人のほうがはるかに詳しいと思います。特に最近の韓国映画は光州事件や植民地時代の親日派に関する映画など、自国史の「暗部」を映像化し、物語として国民的に共有しようとしています。
残念ながら日本ではこのような努力はほとんど見られません。この点では韓国に大きな知的アドバンテージがあります。このまま日本人が自国史の「暗部」から目を背け続けていれば、いずれ日韓の国力には大きな隔たりができることでしょう。国力とは突き詰めて言えば、不都合なことも含めてどれくらい自国の歴史と現実を受け入れることができるか、その器量の大きさのことだからです。