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「君たちが『天皇』とひとこと言ってくれたら安田講堂で一緒に戦った」という三島の言葉にはびっくりしました。三島は一体何を言ってるんだろう、と思いました。
2020年4月16日の内田樹さんの論考「「GQ」の人生相談(前編)」をご紹介する。
どおぞ。
『GQ』の連載の人生相談。原稿を書いて送ろうとしたら、今月号は「コロナ特集」になって連載は休載とのこと。次は10月号なので、その時はまたその時書くとして、今回の分はブログで公開。
映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』の予告編で内田先生も出ておられることを知りました。その予告編を見たら、YouTubeが三島由紀夫の動画を勧めてくるようになり、1970年11月25日、自衛隊の市谷駐屯地で三島が自衛隊員たちを前に「自衛隊の本分とはなにか。日本を守ること。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである」と演説している動画も見ました。コロナ騒動で映画館が閉館となり、どうなるかわかりませんが、ぜひこの映画の見どころを教えてください。
映画館が閉鎖される直前に公開された『三島由紀夫 vs 東大全共闘』はどこも満員だったそうです。
あの映画は、1969年5月13日に東大駒場で開かれた三島と東大全共闘との討論会を撮ったフィルムがTBSの倉庫で発見されたものがベースになっています。そこに橋爪大三郎、平野啓一郎、瀬戸内寂聴、小熊英二など、いろいろな人からのコメントを織り込んで編集した。僕は同時代の空気を吸った人間としてこの討論会がリアルタイムでどういうインパクトをもたらしたのか、その「証人」としてコメントしたんですけど、「古老に聴く」みたいな感じでしたね。
監督はじめスタッフはみんな若くて、事件以後の生まれなんですよ。だからあの時代の「空気」がわからない。そこから説明しました。69年の5月というと、1月に安田講堂が「陥落」して、左翼の闘争が一気に勢いを失った頃なんです。駒場キャンパスにはもう学生たちもまばらになっていて、全共闘の学生たちも国へ帰ったり、長期のバイトをしたりしていた。そこで何人かの活動家が劣勢を挽回しようとして「打ち上げ花火」を上げたというのが実相のようです。特に三島由紀夫と思想的に決着をつけなくちゃいけないというような政治的緊急性があったわけじゃなくて、「とにかく駒場に人を集めて、もう一度闘争に火を点けよう」とした。そしたら、企画としては出来がいいですから、1000人集まった。
僕は当時駿台予備校に4月から通っていたので、駒場でそういうイベントがあったことは後になって聞きました。予備校でも話題になってました。どんな話をしたのか気になっていたら、6月にはもう新潮社から本が出ている。仕事早いですよね。それを買って読んで、「君たちが『天皇』とひとこと言ってくれたら安田講堂で一緒に戦った」という三島の言葉にはびっくりしました。三島は一体何を言ってるんだろう、と思いました。
それから半世紀経って、元陸自の将官の方と知り合って、三島をああいう行動に走らせたのは陸自にも責任があるという話を伺いました。
三島は彼の私設軍事組織である「楯の会」を引き連れてレンジャー部隊の訓練をしてましたから、陸自とはつながりが深かった。陸自の将官たちも世界的な文豪が自衛隊を高く評価してくれて、自ら訓練に参加してくれるわけですから、うれしくないはずはない。だから、「三島さんが立つ時は、われわれも蹶起します」というような軽率な発言をした人が中にいたらしい。リップサービスだったんでしょうけれど、三島はそれを真に受けた。
楯の会が立てば、陸自の一部が呼応する。すぐに鎮圧されてしまっても「国士」と「陸軍」の一部がクーデタに蹶起したという事件の政治的インパクトはすごいものになる。三島はそれで死んでもいいとたぶん思っていた。ですから、三島が駒場に行って東大全共闘の学生たちと討論したのは、自分と一緒にクーデタに参加する革命戦士を「リクリート」するだめだったと僕は思います。
極右の「楯の会」と自衛隊だけでは足りない。ここに少人数でも、極左の過激派学生が加われば、三島のクーデタは「国民的」なものになる。「昭和元禄」の泰平の夢を覚ます壊乱的な事件になる。
あの討論会で三島は終始上機嫌ですけれども、あれは学生たちに「すばらしい人」だと思わせる必要があったからです。豪胆で、ユーモアがあって、頭が切れて、そして器が大きい人間である、と。「この人と一緒なら死んでもいい」と思えるような人間として学生たちの前に立つ、というのがあの時の三島の戦略だったと思います。
だから、学生たちは必死になって三島に絡んだり、論破しようとしていますけれど、三島は論争的な態度をまったく取っていない。相手の論理の隙を衝いたり、無知を指摘したりということは、三島の知力をもってすればたやすいことだったと思いますけれど、そういうことを一切していない。学生たちは三島を「やり込めよう」としているけれど、三島は学生たちに決して屈辱感を与えないように自制している。だから、1000対1の戦いなのに、三島の方がずっと「品がいい」んです。みごとなものだったと思います。
だから、これは「討論会」なんかじゃないんです。学生たちはそのつもりだったかもしれないけれど、三島は「自分と一緒に死ぬ人間」を探しに来た。5人でもいい、3人でもいい。死ぬ覚悟で革命闘争をしている学生が東大全共闘にはいるだろうと思って来たんです。いなかったけど。
残念ながら、その当時三島の政治思想とまともに向き合っていた左翼学生はほとんどいなかったと思います。『文化防衛論』や『憂国』や『英霊の聲』を読んで、天皇制を思想的な主題として論じている左翼学生と、僕自身は会ったことがないです。もちろん文学好きの学生たちの間では『仮面の告白』や『金閣寺』は評価されていたけれども、『英霊の聲』なんか相手にされていなかった。でも、僕は読んでましたよ。これが三島の最も重要な仕事じゃないかと思っていた。だから、仮に69年の5月にうっかり僕が駒場にいて三島を見ていたら、くらくらっとしたかも知れません。