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内田樹さんの「若者の質問へのご返事」 ☆ あさもりのりひこ No.881

コンテンツの真偽適否は自分が決めることではありません。言論の場を領する集団的叡智が最終的に決することです。

 

 

2020年5月17日の内田樹さんの論考「若者の質問へのご返事」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

私の読者という若い方から手紙が来た。ツイッターで、ある政治学者のツイートをRTしたら、知り合いから「若い人は政治的発言をするな。党派的な発言をすると気分を悪くする人もいるから、そういう人に配慮しなさい。政治的発言をしたければ、もっと勉強してからしなさい」というお叱りを受けたそうである。

 どう対応すべきでしょうかというお訊ねだったので、次のような手紙を書き送った。

 

 こんにちは。内田樹です。

 お訊ねの件ですが、直接ご返事をする前に、少し原則的なことを確認したいと思います。

 僕は言論の自由を大切にする立場から、基本的にはどんなトピックについても、どなたでもご自由にご発言くださいという立場です。

 僕が言論の自由を大切にするのは「言論の場の判定力」を信じているからです。長期的かつ集団的には、言論の場において下される真偽理非の判定はだいたい適切である。僕はそう信じています。

 ですから、僕が自分の意見を発表するときの基本的な構えは、できるだけ長期にわたって・できるだけ多くの人にreadable/audible であるように表現することです。それだけです。

 大切なのは「長期にわたって、読み継がれ、語り継がれるように発言する」「立場を超えて、できるだけ多くの人に届く」ということです。コンテンツの真偽適否は自分が決めることではありません。言論の場を領する集団的叡智が最終的に決することです。だから、できるだけ真偽適否の判定が下しやすいかたちで自分の仮説を提示すること、僕たちに求められているのはそれだけです。「オレの言うことは正しい」ということをいくら大声で繰り返しても、ほとんど意味はありません。正否の判定をするのは「言論が自由に行き交う場」そのものであって、個人ではないからです。僕でもないし、僕が批判している人でもないし、僕を批判している人でもない。真偽理非の判定は集合的な営為です。だから「オレは正しい・あいつは間違っている」ということをうるさく言い立てている暇があったら、自分の発する言葉が、できるだけ長い時間にわたって生き延び、できるだけ多くの人に届くようにするために工夫する方がずっと無駄がない。

 そのためには、情理を尽くして、わかりやすく、きちんと論拠を示しながら、そして反証可能なかたちで語る。最後の「反証可能なかたちで」というのが言論の場に言葉を差し出すときのもっとも大切なルールです。

 エビデンスというのは誰でもアクセスできるものに限定されます。「私の夢に出て来た」とか「天狗がやってきて教えてくれた」とかいうのは、どれほど「ほんとうらしい」話でも、エビデンスにはなりません。言論が自由に行き交う場に対する敬意がある人は、他の人が真偽の判定できないこと(追試できないこと)は論拠には使わない。

 ですから、僕は論争ということをしないことにしています。

 もちろん、ある人の意見にどうしても同意できないという場合もあります。その場合には、その人に対して直接「あなたは間違っている」というのではなく(言ってもあまり意味がありません)、その人の意見に賛同したり、その意見を広めたりするかもしれない人たちに向かって「それは止めておいた方がいいですよ」と説得するというスタンスを採ることにしています。

説得するというのは相手の知性を信じるということです。

 論争を好む人は実はreader/audienceの知性や判断力を信じていないのではないかと思います。人々の目の前で完膚なきまでにぼこぼこにして勝敗を決して見せないと、論争している当事者たちのどちらが正しいかお前たちにはわからないだろうから、お前たちに代わって判断を下してやる・・・というのが論争の前提にある考え方です。

 僕はそういう考えを採りません。

 というのは、論争において、自分たちのやりとりを見聞きしている人たちの知性を低く設定していると、話を盛ったり、ごまかしたり、嘘をついたり、詭弁を弄することを自制できなくなるからです。結果的に「正しい意見」が勝利するなら、その過程でどのような「正しくないこと」をしても、手段は目的の正しさによって正当化されるという理屈が通ってしまうからです。だから、論争的になればなるほど、人は知的に不誠実になる・・・というのが僕の経験知です。

 言論の自由の場の審判力を信じる。だから、論争をしない。

 この二つを僕は発言に際しての基本ルールとしております。

 以上が原則的な確認です。その上で、ご相談の案件について僕の意見を申し上げます。

 誰かに向かって「黙れ」という人は、自分の審判力は信じているが、場の審判力を信じていないという点で、言論の自由の本質を理解していない人だと思います。

 あなたに「黙れ」と言ったこの方は、「自分の知性や判断力は相手より優れている」ということを前提に発言をしています。あるいは、ほんとうにその方の方が知識量や論争力においてあなたより優れているのかも知れません。それでも、言論の場においては、プレイヤー全員が等しくものごとの理非を判断できるだけの知性を具えているという前提を採用しなければなりません。

 あなたを叱った方は、ご本人の主観では、あなたの知的成熟を支援するつもりで、教化的善意に基づいてそうしているのかも知れません。しかし、これは教育的関係においては採るべきではない態度だと僕は思います。とりあえず、僕はそういうことはしないようにしてます。

 

 僕からのアドバイスは以上です。お役に立てばいいんですけど。