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エリート教育を受け、戦争を生き延び、社会的成功を収めた男たちの、悠揚たる物腰から垣間見える「耐えがたい浮薄さ」を小津は見逃さない。
2020年8月8日の内田樹さんの論考「小津安二郎断想(5)「悪いおじさんたちの話」」をご紹介する。
どおぞ。
『秋日和』に付したもの
佐分利信、中村伸郎、北竜二、笠智衆が演じる旧制中学高校の同級生たちが、銀座のバーや大川べりの料亭に集まって、さまざまな「悪戯」を企てるという話型は『彼岸花』に始まって、『秋日和』、『秋刀魚の味』と繰り返される。あまり言う人はいないが、この「悪い男たち」定型を発見したことによって小津安二郎はその映画世界を完璧なものにしたと私は考えている。
男たちは小津と同年齢であり、文化的バックグラウンドを共有している。「ルナ」や「若松」は、たぶん小津自身がふだん通っていた場所を再現しているし、そこで行き交う話柄も小津自身が友人たちと交わしていた会話に近い。そういう意味で、この男たちは小津安二郎の「アルターエゴ」である。
けれども、小津の底知れなさは、この男たちを描く筆致のうちに、共感や親しみだけでなく、残酷なほどの写実が含まれていることにある。エリート教育を受け、戦争を生き延び、社会的成功を収めた男たちの、悠揚たる物腰から垣間見える「耐えがたい浮薄さ」を小津は見逃さない。
例えば、学歴についてのこだわり。
『秋日和』では、アヤ子(司葉子)の見合いの相手を物色するときに田口(中村伸郎)が言い立てる「東大の建築を出て、いま大林組」という人物紹介の異様さに私たちは胸を衝かれる(実在の会社名がストーリーと無関係に映画の中で言及された例を私は他に知らない)。間宮(佐分利信)が推す花婿候補の後藤(佐田啓二)は「早稲田の政経」であることは桑野みゆきの歌う応援歌付きで紹介される。三人の「おじさん」たちは大学時代、「本郷三丁目」の薬屋の娘秋子(原節子)に岡惚れしたというエピソードを一つ話にしている。そこから彼らが東京帝大の卒業生であることが知られる。世間話の隙間に自他の学歴にすかさず言及するのは日本の高学歴男性の通弊である。
間宮の目下のものに対する威圧的な態度も際立っている。「出かけるよ。ああ、車」「田口さん、いないの」だけで、「お願いします」も「ありがとう」もなく電話を受話器に叩きつける様子や、相手の腹具合も聞かずに昼から女性たちにオイリーな鰻を強要する間宮の横暴を小津はそのまま写し出す。
『秋日和』ではとりわけ初老の男たちの好色が副旋律として全編に絡みついている。「痒いところ」や「蛤」や若松の女将(高橋とよ)の性生活への執拗な言及はこの「おじさん」たちの品性のレベルを露呈させる。
映画はアヤ子の結婚と秋子の再婚話を酒席の冗談に紛らわせて笑う男たちの場面から切り替わって、一人暮らしの秋子を気づかう百合子(岡田茉莉子)の短い訪問と秋子の無言のクロースアップで終わる。秋子の無表情には「耐えがたく浮薄な男たち」への絶望が刻み込まれている。だが、小津はその「絶望される男」の側にあえて踏みとどまる。小津安二郎は「絶望される男たち」の一人という苦い立ち位置から映画を撮っているのである。
大人だと思う。