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反知性主義というのは「他人から知的に誠実な人だと思われるために努力する気がない」という心的傾向のことです。
2020年12月29日の内田樹さんの論考「『日本戦後史論』文庫版あとがき」をご紹介する。
どおぞ。
白井聡さんとの対談本、『日本戦後史論』が朝日文庫から文庫化された。その「あとがき」を採録。
みなさん、こんにちは。内田樹です。
本書は2015年に出た白井聡さんとの対談集の文庫化です。もう5年も前になるんですね。時評的な本が5年後に文庫化されるというのは、かなり珍しいことだと思います。5年前の政治的トピックをめぐって書かれた本がいまもまだリーダブルであるとするとそれを説明する仮説は二つ考えられます。
一つは、日本の政治状況が5年前から変化していないということ。もう一つは、僕たちが話していることが速報性とも時事性ともあまり関係がなかったということ。さて、どちらでしょう。
日本の政治状況が5年前から変わっていないというのは、たしかにありそうな話です。単行本が出た5年前は第二次安倍政権のときでしたが、そのときの官房長官がいまの総理大臣です。独裁、ネポティズム、対米従属、新自由主義、反知性主義という政権の「後進国的」体質は総理大臣が変わっても、ほとんど変化しませんでした。むしろ反知性主義的な傾向は一層強化されているような気がする。
反知性主義という言葉を使うと、たちまちこめかみに青筋を立てた人たちがわらわらと登場してきます。そして、「オレのことを言っているのか」とか「お前はいかなる資格があって、他人を知性的・反知性的だと区別できるつもりでいるんだ」と怒り出します。「反知性主義者」というのは、こういう人たちを「釣る」絶好のルアーみたいですね。でも、別に僕はそれほど論争的なことを言っているつもりはないんです。
反知性主義というのは「他人から知的に誠実な人だと思われるために努力する気がない」という心的傾向のことです。それだけです。別に頭が悪いとか無知だとか言っているわけじゃありません。スマートで博識な反知性主義者なんていくらでもいます。
「知的誠実さ」というのは、嘘をつかない、首尾一貫性を重んじる、論理的に思考するなどいろいろなかたちで示されますけれど、一番際立った特徴は「論拠を示して説得されれば、素直に誤りを認めて、自説を撤回する」ことです。
ただし、このような態度は、謙虚であるとか度量があるとかいう個人の属性とはとりあえず関係がありません。関係があるのは一つだけ。それは「知性的/科学的」であろうとしているかどうかということです。
科学的な人は、きちんと反証されれば、誤りを認める。科学的でない人は、それができない。知性と反知性の違い、科学と非科学の違いはつきつめて言えばそれだけです。
嘘つきであったり、論理的に思考できなかったり、絶対に間違いを認めない人って、実際に世の中にはよくいます。そういう人が政治家やビジネスマンやジャーナリストとして輝かしい成功を収めることはよくあります。でも、そういう人には国の命運を決する重要な政策選択の場にはできたらいて欲しくないと僕は思っています。
どうして「自説を撤回する能力」がこれほど重要なのか、それについて僕が最も納得しているのはカール・ポパーの説明です。
「知識は無から-白紙の状態(タブラ・ラサ)から出発するのでもなければ、観察から出発するのでもない。知識の進歩というのは、主として、それ以前の知識の修正によって成り立つ。」(「知識と無知の根源について」、『推測と反駁』、藤本隆志他訳、法政大学出版局、1980年、49頁)
知識の進歩というのは「それ以前の知識の修正」によって成り立つ。当たり前のことのようですけれど、それがなかなか当たり前とは言えないのがつらいところです。というのは、なんらかの「究極の真理」がどこかにあって(神の摂理でも、絶対精神でも、歴史を貫く鉄の法則性でも)、その秘儀に参入した人間はあらゆる言明の真偽をただちに検証できる・・・という考え方をする人がたいへん多いからです。人口比で言ったら、たぶん圧倒的にそちらの方が多いと思います。でも、ポパーはにべもなくそういう人たちは「科学的ではない」としたのです。ポパーが科学的言明の唯一の条件としたのは修正され得ること、すなわち「反証可能性(falsifiability)」です。
反証事例を以て反証することができない言明はその真偽にかかわらず科学的ではありません。例えば「神は存在する」は科学的言明ではありません。論証することができないからではなく、反証することができないからです。科学的か非科学的かの判別は真偽の判定とは違う水準のできごとです。仮説が反証可能なかたちで提出されているかどうか、それだけが科学性のチェックポイントです。どのような反証事例が提示されても、術語の解釈が違うとか、誤差の範囲であるとか、あれこれ言い逃れをする人は、仮にその人が主張していることが正しくても、非科学的な人間と見なさなければなりません。
「『科学的客観性』と呼ばれるものは、科学者個人の不党派性の産物ではなく、科学的方法の社会的あるいは公共的性格の産物であり、仮に科学者個人の不党派性というものがあるとしたら、それはこの社会的・制度的に組織された科学の客観性の起源ではなく、むしろ帰結である」(Karl Popper, The Open Society and its enemies 2, Princeton University Press, 1961,p.220)。
間然するところのない定義だと思います。科学者が個人として中立的で、不偏不党であり得るとしたら、それは本人が「私は中立的だ。いかなる党派的なものにも与しない」とうるさく主張するからではありません。そうではなくて、おのれの仮説の正否の検証は、自分が行うものではなく、公共的なある場に差し出して、その判定に委ねるということを誓言しているからです。
ポパーが「科学的方法の社会的あるいは公共的性格(the social or public character)」と呼ぶものは「場に対する信認」と言い換えることもできます。「場」といってもいいし、「対話的環境」と言ってもいい。複数の人たちが参加して、それぞれのしかたで世界を眺め、それぞれが違うことを考えているときに、その人たちと対話し、自説の可否の検証を彼らとともに形成する「場」に委ねること、それが科学的であるためのただ一つの条件です。
そう考えると、今の政治家の言葉やメディアやSNSで行き交う言葉には「科学性が欠けている」と僕が思うのも不思議はないと思います。「日本の政治状況は5年前からあまり変わっていない」という気がするのは、この反知性主義的傾向が社会生活の全領域でまったく改善されていないからでしょう。
第二の仮説も同時に成立しそうです。つまり、5年前に僕と白井さんが熱く論じていたのは、多少時間が経ったくらいでは変わることのない日本社会に固有の「痼疾」についてだったということです。
たしかに、僕たちが個別の政治的事件について「こんなことが起きた」ということをただ羅列的に語っていただけなら、そういうものは5年後にはほとんどリーダビリティがなくなっていたでしょう。もし今でもまだこの本にリーダビリティがあるのだとすれば、それは僕たちが一つ一つの出来事についてではなく、そのような出来事を繰り返し生み出さずにはいない日本社会の構造を見出そうとしていたからではないかと思います。
もちろん、戦後日本全体について、そのような構造を掘り起こすのは一人や二人の人間が果たせる仕事ではありません。長期にわたる、集団的な学的営為によってはじめてなしうる事業です。そういう大勢の人たちとの共同作業の中で、僕たちの本が一つの「煉瓦」として、どこかの壁の穴を埋めたり、どこかの柱の補強材になったりして役に立つことができたのだとしたら、それだけでもたいへん光栄なことだと思います。
最後になりましたが、つねにその知的な熱さで僕をインスパイアしてくれた白井聡さんに感謝と敬意を表したいと思います。これからもどうぞ老骨をご指導ご鞭撻ください。また最初にこの企画を立ててくれた徳間書店の崔鎬吉さん、文庫化を進めてくれた長田匡司さんのご尽力にもこの場を借りて感謝いたします。どうもありがとうございました。