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内田樹さんの「アメリカ大統領選を総括する」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.960

自由の獲得は「人間の仕事」であるけれど、平等の達成は「神さまの仕事」である

 

 

2020年12月30日の内田樹さんの論考「アメリカ大統領選を総括する」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

ある媒体にインタビューを受けて、アメリカ大統領選について総括的なコメントをした。少し言い足りないところがあったので、それを追加して、前半だけ採録しておく。

 

 当選確定後、バイデンは自分に投票しなかったトランプ支持者にもひとしく配慮すると約束しました。トランプに投票した人は7380万人。浮動票を除いてもトランプのコアな支持者が今もアメリカ国内には数千万人いるということです。バイデンは彼らの立場や要求にも配慮しながら統治を進めなければいけない。困難な仕事になると思います。

 それはアメリカ社会はどのようなものであるべきかについて、その「アイディア」によって現在の国民的分断がもたらされているからです。僕はそれを「自由」と「平等」のどちらをアメリカの本質的な理念に掲げるか、その選択の違いによるものではないかと考えています。それについて少し説明します。

 まず第一に確認して欲しいことは、そもそもアメリカの建国理念が最も重んじたのは市民の自由であって、市民の平等ではなかったということです。

 独立宣言には「すべての人間は平等に創造され、創造主によって生命、自由、幸福追求の権利など奪うことのできない権利を付与されている」と書かれています。よく読むとわかりますが、平等であることは自然権には含まれていません。つまり、合衆国の公権力は「生命、自由、幸福追求の権利」については国民にこれを保証しなければならないけれども、平等の実現は必ずしも政府の仕事とは考えられていないということです。

 ですから、1787年制定の合衆国憲法も、その修正条項(いわゆる「権利章典」)にも、「自由を保障する」ことは繰り返し確認されていますけれど、「平等を達成する」という文言はどこにもありません。

 それは自由の獲得は「人間の仕事」であるけれど、平等の達成は「神さまの仕事」であると考えられているからです。人間たちは創造主によってすべて平等に創造された。それからあとひとりひとりが自由に生き、それぞれに創意工夫を凝らして、競争し、その結果として社会的格差が生じたのだとしたら、それは少しも悪いものではない。

 アメリカ社会においては、「社会的なフェアネス」とは、あくまで個人の市民的自由の行使を妨げないことであって、全体の平等を実現することではありません。統治理念でありながら、自由と平等では、その位置づけがまったく違うこと、人間たちにとっての優先順位がまったく違うこと、そのことを踏まえておかないと、アメリカで今起きている国民的分断の理由が理解できないと思います。というのは、アメリカにおける国民的分断はつねに「自由」と「平等」のどちらを優先させるかというきわめて原理的な対立スキームの中で起きて来たからです。

 独立宣言が発布されてから奴隷解放令まで80年以上かかりました。公民権法の制定まではさらに100年かかった。それでも人種差別はなくなっていません。今もブラック・ライブズ・マター運動が平等の実現を訴えている。建国以来250年経っても市民的平等が実現していないということは、平等の実現はアメリカ建国の目標ではないと考える多数の市民が存在するということを意味しています。

 平等の実現は、公権力が富裕層や権力者に対して強権的に介入して、彼らの財産や権力の一部を取り上げて、それを貧者・弱者に再分配するというかたちでしか実現しません。自由を最優先する人たちにはこれが許せないのです。自助努力を通じて獲得した資産や権力を、何が哀しくて、努力もせず、才能もない人間たちと分かち合わなければならないのか。それは建国理念がめざす市民的自由の侵害である、と。そう考える人たちは、自分たちこそアメリカの建国理念に忠実なのだと考えています。

 アメリカに公教育が導入されたときも、フランクリン・ルーズベルト大統領の「ニューディール」政策が実施されたときも、オバマ大統領のオバマケアが制定されたときも、つねに「それは社会主義だ」「非アメリカ的」だというはげしい批判が右派からなされました。公権力が介入して平等を実現することは「間違っている」と確信している人たちがアメリカにはそれだけいるのです。

 それでも、アメリカ市民たちは、今回のパンデミックで、感染症を抑制しようと望むなら全国民が等しく良質な医療を受けられる体制を整備する以外に手立てがないということは、理屈ではわかったはずです。でも、理屈ではわかっても、身体が受け付けない。

 それは、アメリカでは久しく「医療は商品」だと考えられていたからです。金のあるものは良質な医療が受けられる。金のないものは受けられない。それが「フェア」だと多くの人々は信じてきた。医療は不動産や自動車や宝石と同じような「高額の商品」である、と。それが「欲しい」という場合に、手持ちの金が足りないので、差額を税金で補填してくれと言い出したら、周りの人は怒り出すでしょう。そんなものは自分の金で買え、と。

 医療も同じように考えられている。お前が医療を受けて病気を癒し、健康な身体になった場合、医療はお前の自己利益を増大させたことになる。だったら受益者負担のルールに従って、医療が受けたければ身銭を切って手に入れろ。他人の金を当てにするんじゃない、と。

 たしかに、一般の疾病だったら、その理屈が通る。でも、感染症は違います。今回新型コロナウイルスに感染して入院した患者に、退院後1000万円が請求されたというようなニュースがありました。アメリカで医療に携わってきた友人たちに訊くと、そんなのは日常茶飯のことだそうです。アメリカには今2750万人の無保険者がいます。彼らはたとえ感染の疑いがあっても、怖くてとても診療なんか受けられない。だから、感染しても、隔離もされず、治療もされずに放置される。そのグループがいつまでも感染源として社会にとどまり続ける。

 誰でも経済的な不安なしに診療を受けられる体制を整備しない限り、感染は永遠に終わりません。アメリカが世界最高の医療テクノロジーを持ちながら、感染者数、死者数とも世界最多であるのはそのせいです。

 

 もちろん、ビル・ゲイツのように私財を寄付するという人はいます。でも、それはあくまでビル・ゲイツの自由意思に基づく行為であって、彼が富裕層に向かって「君たちも寄付しなさい」と命じる権利はない。再分配は公権力によってではなく、私人の慈善によってなされるべきであるというのがアメリカの常識です。たしかに、財団とか教会とかが行う慈善活動のスケールは桁外れの規模のものですけれども、それでも、平等の実現のために身銭を切るという仕事はあくまで「私事」とみなされている。