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内田樹さんの「市民社会とコモン」(中編) ☆ あさもりのりひこ No.965

自由をひたすら追求すれば平等の実現は遠のき、平等をひたすら追求すれば個人の自由は阻害される。

 

 

2021年1月19日の内田樹さんの論考「市民社会とコモン」(中編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 アメリカでは建国以来、統治原理そのもののうちにある種の矛盾を抱え込んでいます。それは連邦派と分離派の対立であり、リバタリアニズム(自由原理主義)とコミュニタリアニズム(共同体原理主義)の対立であり、統治原理で言えば自由と平等の対立です。それが形を変えて繰り返されています。

 近代市民社会では、「自由と平等」は並列的な概念のように扱われていますけれど、よく考えてみると、自由と平等はトレードオフの関係にあります。自由をひたすら追求すれば平等の実現は遠のき、平等をひたすら追求すれば個人の自由は阻害される。世界の多くの国がデモクラシーを導入して何百年経っても、いまだに繰り返しデモクラシーの危機に遭遇するのは、デモクラシーが本質的に不安定な政体だからですが、それはデモクラシーの根本理念であるところの「自由と平等」が実はたいへんに相性が悪いからです。自由を優先すれば、平等が犠牲になり、平等を優先すれば自由が犠牲になる。巨大な公権力が存在して、市民生活に強権的に介入すれば自由は抑圧される。でも、公権力が私権を制限し、私財の一部を徴収して、公共財を豊かにして、それを弱者・貧者に再分配するしくみをつくらなければ平等は実現しない。自由主義者は「小さな政府」を求め、平等主義者は「大きな政府」を求めます。

 アメリカの南北戦争も、一面から見ると、自由か平等かを選択する戦争でした。政策的に最も対立したのは奴隷制度廃止です。リンカーンは人種差別を廃して人種間平等を実現しようとしたのですが、そのためには「人種間の平等なんか不要だ」と主張する人たちを一方の政府が軍事的に制圧して、制度を強制するしかなかった。南部連合の「自由」を尊重していたら、奴隷制撤廃による「平等」は実現できなかったということです。

 でも、奴隷制支持者の側にも大義名分はあったのです。「独立宣言」には「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と書いてあるからです。創造主はすべての人を平等につくった。誰もみんな平等に生まれた。だったら、それから後は自由競争です。個人的な努力によって、ある者は強者になり、ある者は敗者になる。ですから、勝者と敗者、強者と弱者、富裕な者と貧しい者の格差は、もともとは平等に創造された人間たちのそれ以後の人間的努力の差に過ぎないという説明が可能になる。平等の実現は神さまの領域の仕事であって、人事にはかかわらない。そこに公権力が介入して、無理やり平等を実現することは、人間の分際で神さまの領域を侵すことに等しい。それは許されない。そういうふうにリバタリアンは考えます。だから、公権力が制度的に平等を実現することにあくまで反対する。努力しなかった人間、才能がなかった人間を公権力が税金を使って救済することはアンフェアである、と。リバタリアンたちは「自由を求める人間は強者であり、平等を求める人間は弱者である」というふうに考えます。そして、人間はすべからく強者たらねばならない。この考え方はアメリカ社会には深く根付いています。

 アメリカの保守思想家の中にはユダヤ人が多く含まれています。ユダヤ人は19世紀末や20世紀はじめにロシアや東欧で反ユダヤ主義の暴力を逃れてアメリカに大挙して移住してきました。でも、新大陸でも彼らはまったく歓待されなかった。先に定着した移民集団から排斥され、はげしい差別を受け、既存の産業分野のドアは鼻先で閉じられ、ユダヤ人には就くべき職業がなかった。しかたなく彼らは金融とジャーナリズムとショービジネスというまったく新しいニッチビジネスを開発した。自分たちで雇用を創出する以外に働き口がなかったのです。でも、この三つは20世紀アメリカで最も成功したビジネス分野になった。

 移民第一世代がそうやって刻苦勉励して金を稼ぎ、子どもの世代には高等教育を受けさせて、社会的成功を収めた。そういう被差別状態から這い上がった成功体験を重く見るユダヤ人たちは黒人に対する人種差別に対してしばしば冷淡です。なぜおまえたちはわれわれのように努力しないのか、というのです。最初はわれわれも激しい差別を受け、暴力的に扱われた。けれども、必死に努力してこうやって差別を乗り越えて、社会的威信を獲得した。黒人がいまだに差別の対象であるのは努力していないからだ。そういうロジックです。平等が実現したければ、公権力の介入を当てにせず、自己努力でなんとかしろという主張はなかなか反論することが困難です。

 アメリカでは新型コロナウイルスの感染拡大が止まりません。感染者2400万人、死者は昨年末で35万人、第二次世界大戦の死者数をすでに超えて、世界最悪の数字になっています。なぜアメリカではこれほど感染が広がるのか。それは、アメリカでは医療を受けるか受けないかの決定権は個人の自由に属するとされているからです。医療は高額の商品です。お金を出して買うものです。だから、金があるものは医療を受けられる。ないものは受けられない。シンプルです。

 古代ギリシャの「ヒポクラテスの誓い」には「医療者は患者が自由人であっても奴隷であっても、その属性によって医療内容を変えてはいけない」という一条があります。医療は商品ではないということです。これは医療については正しい考え方だと僕は思います。実際に、この誓いを実現するために、人類はできる限り安価で効率的な医療法を開発し、すぐれた医療者を育てるための医学教育制度を整備し、貧しい人でも医療を受けられる保険制度を発明した。もし、古代ギリシャの時点で、医療は金持ちだけが受けられ、貧乏人は受けられないで死ぬというシンプルで非情なルールを採用していたら、それ以後の医学の進歩はなかったでしょう。

けれども、アメリカでは「医療の平等」という考え方はいまだに国民的合意を得ることができないでいます。国民皆保険制度もつくろうとするたびに阻まれてきました。今、アメリカには無保険者が約2750万人います。彼らはコロナウイルスに感染しても病院に行けない。ICUが一日1000ドルというような設定ですから、数週間も入院するとすぐに請求額が数百万円というような額になる。だから、貧しい人は治療が受けられない。けれども感染症は全住民が等しく良質な医療を受けられるシステムが整備されない限り制御できません。しかし、アメリカではそういう制度がない。ないどころか、そういう制度が必要だという考え方を受け入れない国民が数千万人単位で存在する。これからバイデン新大統領が感染症抑制のために医療機会の平等を実現しようとしても、国民的合意を得るのは困難でしょう。