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問題は、自分の「健康」は自己努力の成果だと信じている人たちがこの世の中では指導的地位を占める傾向にあるということである。強く、健康で、それを自己努力の成果だと誇っている人たちが世の中のかたちを決めている以上、この社会が「強者ベース」に制度設計されることは避けがたい。私はそれがこの社会をとても息苦しく、生きにくいものにしていると思う。
2021年1月28日の内田樹さんの論考「ALSについて」をご紹介する。
どおぞ。
劇団態変を主宰している金滿里さんから「IMAJU(イマージュ)」という定期刊行物が送られてくる。以前、舞台を見てから、それについて金さんと対談をするという企画があって、それがこの雑誌に掲載されたことがある。それ以来ときどき金さんとお会いする。前にお会いしたのは、去年の凱風館でのパンソリの安聖民さんの公演においでになった時だった。
今回の「IMAJU」2020年冬号はALSの特集だった。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気について、私は二人の人しか知らなかった。
一人は私が師と仰ぐ哲学者エマニュエル・レヴィナスが最も大きな影響を受けた哲学者フランツ・ローゼンツヴァイク。もう一つはこの特集にも金さんやALS患者の橋本操さんたちとの座談会に参加している甲谷匡賛さん。何年か前に、甲谷さんの暮らす京都の町屋を釈徹宗先生と「聖地巡礼部」でお訪ねしたことがあり、そのときに市井を自由に生きる甲谷さんの姿を見て、驚きを覚えたことがある。
ローゼンツヴァイクについてレヴィナスは『二つの世界のあいだで フランツ・ローゼンツヴァイクの道』と題する長文の伝記を書いている。少し長くなるが引用する。
「彼は34歳で進行性延髄麻痺を伴う筋無力症に侵されました。急激に死に至る恐るべき病でしたが、ローゼンツヴァイクは病を得てから8年間生き続けました。早い時期に全身不随となり、口もきけなくなりましたが、彼が意思を伝え、文字を書くことができるように、特別な器械が作られました。ほとんど感知できないほどのわずかな身の動き―彼の妻だけがそれを見わけることができました―によって文字を指示し、それによって彼は考えを伝えたのです。
彼がイェフダ・ハレヴィのヘブライ語詩の翻訳と、マルティン・ブーバーと協力しての聖書のドイツ語訳を企てたのはまさにこの病床においてでした。この時期に書かれた多くの著作はのちに一巻にまとめられました。」(レヴィナス、『困難な自由』)
ローゼンツヴァイクの家は「歓待の館」となった。外に出ることのできないローゼンツヴァイクのために多くの友人たちが彼の下を訪れ、死が訪れるまでの日々豊かな対話を繰り広げたのである。
この文章を最初に読んだ時、私はまだ30代のはじめだった。自分がこのあと何年か先にこのような病気に罹ったとして、その病床において何か後世に残せるような仕事ができるだろうか、そもそも「仕事をする」という気持ちになるだろうかを考えて、ローゼンツヴァイクの精神力に圧倒された記憶がある。
おそらくレヴィナス自身もこの文章を綴りながら、果たして自分はローゼンツヴァイクのように生きられるだろうか自らに問うたと思う。即答することはできなかったかも知れないが、それでもその問いをレヴィナス自身は生涯にわたって手離すことはなかっただろう。
ローゼンツヴァイクの生きる力を支えたのはユダヤ教への深い信仰と新しい哲学をかたちにしなければならないという熱烈な使命感だった。私にはどちらもない。それでも、ALSを罹患したあとに、残されたわずかな身体資源を最大限に生かして、なにごとか後世に「よきもの」を残すことができた人間がいたという事実は私をずいぶん勇気づけた。
だから、釈先生から甲谷さんの町屋を訪れると聞いたときにも、「ああ、日本にもローゼンツヴァイクみたいな人がいるのだ」と思った。そういう「先人」がいて、われわれに範を示してくれるのかと思った。訪れてみると、甲谷さんはなんだかずいぶんリラックスしているように見えた。別に「余人を以ては代え難い歴史的責務」を果たすために生きようとしているようではなかった。もっと、ふつうに、こういってよければ日常生活として淡々とALSを生きていた。
なるほど、ALSだからと言って別に誰もがフランツ・ローゼンツヴァイクみたいに生きなくてはならないということはないのだというごくごく当たり前のことに気づいて、なんだかずいぶんほっとした覚えがある。甲谷さんを見て「ほっとした」という人はあまりいないのではないかと思うけれど、私はずいぶん救われた気分で彼の町屋を後にしたことを覚えている。
「IMAJU」の座談会では甲谷さんは発言していないが、橋本操さんがたくさん発言している。橋本さんは32歳で発症して、7年後に人工呼吸器装着になった。それから介護システムを自分で工夫されて、介護派遣事業を興して経済的自立を果たし、在宅人工呼吸法を確立し、「世界を飛び回って活動し」て、2006年にALS/MND国際同盟会議「人道賞」を患者としてはじめて受賞したという驚嘆すべき人である。
橋本さんの発言も「口文字版」と呼ばれる介護者とのやりとりで行われる。一音ずつ介護者が五十音表から拾い上げ、それをつなげて語を作り、語をつなげて文を作るという。おそらくローゼンツヴァイクがしたのと同じやりかただと思う。驚くべきなのは、この座談会で話題を牽引し、問題を新しいフェーズに転換する発言の多くが橋本さんのものであることだ。活字になった座談会の記録を読む限りでは、その一音ずつ拾う作業に要する「間」は可視化されない。むしろテンポよく言葉が行き交っているような印象を読むと受ける。おそらく実際にもその「間」は黙って文の形成を待っている人たちにとっては熟慮のための豊かな時間だっただろうと思う。
私たちの社会はいまコロナ禍のうちにある。その中で自粛や行動の規制にいらだつ人たちの中には「コロナなんかただの風邪だ」という主張をいまも続けている人たちがいる。彼らの多くはたぶん罹患しても軽症で済むほどに自分は健康だと思っているのだろう。そして、自分が健康であるのは自己努力の成果だと信じているのだろう。ウイルスに感染して重症化したり、死んだりする人間は、健康であるための努力が足りなかったからそうなったのだ、と。病になるのは自己責任だ。基礎疾患のある人間や高齢者が若者より先に死ぬのは宿命だ。結果的に、「ほんとうに健康で強いもの」だけが生き残るのだとしたら、それこそがフェアネスというものではないのか、と。そういう優生思想を口にしないまでも、胸に秘めている人が私の予想よりもはるかに多いことを感染が広がってから知った。そういう人たちはたぶん自分自身がALSに罹患したら・・・というような可能性については一度も想像したことがないのだろう。不治の病の病床からいかなる「よきこと」を人々に贈ることができるかというようなことはたぶん生まれてから一度も考えたことがなかったのだろう。
問題は、自分の「健康」は自己努力の成果だと信じている人たちがこの世の中では指導的地位を占める傾向にあるということである。強く、健康で、それを自己努力の成果だと誇っている人たちが世の中のかたちを決めている以上、この社会が「強者ベース」に制度設計されることは避けがたい。私はそれがこの社会をとても息苦しく、生きにくいものにしていると思う。
どうしたらいいのか、私にもよくわからない。とりあえず不治の病の床から発信する人の言葉に耳を傾けようという人が一人増えれば、その分だけこの世の中は風通しがよくなる。それを忍耐づよく待つしかない。