〒634-0804

奈良県橿原市内膳町1-1-19

セレーノビル2階

なら法律事務所

 

近鉄 大和八木駅 から

徒歩

 

☎ 0744-20-2335

 

業務時間

【平日】8:50~19:00

土曜9:00~12:00

 

内田樹さんの「『若者よマルクスを読もう2』中国語版への序文」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.987

転向したマルクス主義者たちは、そのあと深刻な葛藤を経ずに、あるいは天皇主義者になり、あるいは仏教に帰依し、あるいは日本古典や古代史の研究に沈潜し、そして、その多くは日本のアジア諸国への帝国主義的侵略の(控えめな、あるいは積極的な)支持者になりました。

 

 

2021年3月15日の内田樹さんの論考「『若者よマルクスを読もう2』中国語版への序文」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 マルクス主義は欧米諸国の未来を予測するための必須の情報として日本人に受容されました。欧米諸国でこれから先にもし劇的な政治経済システムの変動があるとすれば、それを領導する思想はマルクス主義以外にはないだろうという見通しとともにマルクス主義は受容されたのです。

 このような歴史的条件を踏まえるならば、どうして、日本におけるマルクス受容が「実践」よりもむしろ「学習」に軸足を置いて進められたのか、その理由が理解できるはずです。欧米と違うのは、研究の深度や広がりの違いではありません。マルクス読解が実践のためだったのか、学習のためだったのか、その違いです。

 欧米では、労働者であれ、知識人であれ、マルクスを「知的義務」として読むという人はまず存在しないと思います。労働者がマルクスを手に取るとき、それは何よりもまず自分自身の現実を記述し、説明してくれるものとして、です。そこに自分がなすべき行動の指針を求めて読む。そういうすぐれて実践的な読み方をする。そこに「自分のこと」が書いてあると思う労働者がマルクスを読む。そこには「自分のこと」が書かれていないと思う人は、サン=シモンでも、クロポトキンでも、バクーニンでも、マルクス以外の人の書物を読む。労働者たちはそこに「自分のこと」が書かれている本を手に取る。「自分のこと」が書かれていない本は手に取らない。簡単な話です。別に道徳的義務としてマルクスを読まねばならないとか、知的通過儀礼としてマルクスを読まねばならないというような心理的圧力は欧米には存在しなかった。マルクスを手に取った労働者は、その時点ですでに先駆的にマルクス主義者であり、マルクス主義者としてマルクスを読んだ。それは山上の垂訓に耳を傾けていたユダヤ人たちは、その時点ですでに先駆的にキリスト教徒であり、キリスト教徒としてイエスの話を聴いていたというのと同じ構造です。

 逆に、資本家やブルジョワにとってマルクスは蛇蝎の如く忌まわしいものです。彼らの頭上に「鉄槌」が下ることの歴史的必然性が述べられているわけですから、手に取るどころか、できればその名前さえ口にしたくはない。ブルジョワ知識人の書架にマルクスの書物が並んでいたら、それはきわめてシニカルなふるまいであり、紳士に許されざる「マナー違反」と見なされたはずです。

 つまり、自分の人生と直接関係はないけれども、一体どんなことが書いてあるのか、純粋に知的興味に惹かれてマルクスを読むという人は、欧米諸国にはほとんどいなかったということです。仮にいても、例外的な少数にとどまっていたと思います。欧米の19世紀、20世紀の小説の中で、おのれの階級性とまったく無関係に、純粋に知的関心からマルクスであれクロポトキンであれ、革命家の書物を読んでいるという登場人物を僕自身は、管見の及ぶ限り、読んだ記憶がありません。

 日本におけるマルクス受容はそこが違います。日本では、マルクスを手に取るに先立って、自分は先駆的にマルクス主義者であるのか、先駆的に反マルクス主義者であるのか、立場を決する必要がありません。それは階級闘争が、日本ではとりあえず「他人ごと」だったからです。

『共産党宣言』は「ヨーロッパには幽霊が出る―共産主義という幽霊が」という有名な一句から始まります。幽霊が出るのはヨーロッパであって、日本列島ではありません。だから、マルクスを「自分ごと」として読むという切迫感は読者にはなかった。

 それゆえ明治大正昭和を通じて、知的な若者たちは聖書を読み、ミルやスペンサーやベンサムやロックやルソーを読み、同じ文脈で、つまり欧米諸国はこれからどうなるのかという地政学的関心に基づいて、マルクスやクロポトキンを読んだ。欧米諸国の深層にひそむ「定数」を見出し、その「軌道」の上に展開するはずの次の行動を予測するために。それは第一義的には、日本における革命理論であるより先に、日本が生き延びるための情報だったのです。

 ですから、戦前の日本の場合、青年期にはマルクスボーイであったけれども、そのあと資本家になったり、リベラリストになったり、仏教徒になったり、天皇主義者になったり・・・というふうに多彩な履歴にばらけてゆくということが当然のようにありました。

 1925年から45年までの間施行された治安維持法下で、多くのマルクス主義者が逮捕され、獄中で「転向」をしました。「転向」というのは拷問の苦痛に耐えかねて政治的信念を棄てるというパセティックな決断のことではありません。そうではなくて、マルクス主義の理論的な正否はさておき、この政治理論は日本社会にはうまく適用できないと認める静観的で知的な態度のことです。「転向」者に求められたのは、マルクス主義は所詮「他人ごと」であるとカミングアウトすることでした。ですから、政治的に誠実な活動家にとっても、転向は決してそれほど心理的には困難な事業ではなかった。

 転向したマルクス主義者たちは、そのあと深刻な葛藤を経ずに、あるいは天皇主義者になり、あるいは仏教に帰依し、あるいは日本古典や古代史の研究に沈潜し、そして、その多くは日本のアジア諸国への帝国主義的侵略の(控えめな、あるいは積極的な)支持者になりました。

 戦前の日本共産党の指導者であった佐野学・鍋山貞親は1933年、獄中転向に当たり、コミンテルンの指揮を離れて、「日本独自の一国社会主義革命を成し遂げる」ことへの路線変更を同志に訴えました。日本における革命は他国のそれとは違い、「日本的に、独創的に、個性的に、かつ極めて秩序的に開拓する」ものでなければならないというこの声明は驚くべき効果を発揮しました。ただちに多くの幹部党員や同伴知識人がこれに応じて雪崩打って転向を表明したからです。

「雪崩打って」転向できたのは、それが深刻な内的葛藤を求めないものだったからです。転向者たちが、別にことさらに不徳義で、意志の弱い人間であったと僕は思いません。彼らはマルクス主義者であったときも、そうでなくなったときも、本質的には同じ人間でした。政治的目標もそれほど変わってはいない。日本社会をもっと公正で、自由なものにしたい、そう願っていた。でも、検察官に「それよりも国として生き延びることの方が優先するんじゃないか? 国が滅びてしまったら、公正も自由もないだろう」と言い立てられると、言い返せなかった。

 明治時代以来、日本の知的青年たちが欧米の宗教や思想や学術を必死で学んだのは、欧米諸国の「定数」を理解しないと、日本は生き延びることができないという前提があったからです。たいせつなのは、まず日本が生き延びることでした。日本における社会矛盾を解決するのは「その次」の話です。転向者たちはその順序を確認させられたに過ぎなかったのです。

 

 以上、日本におけるマルクス受容の歴史的条件について、速足で私見を述べてみました。ややこしい話でしたので、だいぶ予定の紙数を超えてしまいました。どうぞご容赦ください。

 日本には100年にわたる豊かで、厚みのあるマルクス研究の学的蓄積があります。にもかかわらず、日本におけるマルクス主義運動はついにある程度以上の社会的影響力を持ち得ませんでした。この二つの事実の間にはあきらかに齟齬があると僕は思います。それは中国においてマルクス主義がたどった軌跡とまったく違うものです。ですから、この齟齬こそが日本におけるマルクス受容の固有の歴史的条件をかたちづくっているというのが僕の仮説です。

 日本の読者は他のどの国の読者とも違う立場からマルクスを読むことができます。それは一つの利点です。同時に、日本人の読み方でしかマルクスを読むことができません。それは一つの制約です。でも、そういうものだと思います。あらゆる国の人々はそういうふうにして、ひとりひとりの持ち分を手にして、他の国の人々とともに、世界史的な事業に参加する。そういうものだと思います。

 僕たちのマルクス読解が中国の読者のマルクス理解に少しでも資することがあれば、幸いです。

 

2021年3月

 

内田樹