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重大な事実について頻繁に記憶が欠如するような人間が果たして国政の要路にあってよろしいのか
2021年4月21日の内田樹さんの論考「日本のイディオクラシー」をご紹介する。
どおぞ。
ローマ時代の法諺に「事実の無知は弁疏となるが、法の無知は弁疏とならず」というものがある。ある事実を知らなかったというのは罪を逃れる言い訳になるが、その行為を罰する法律があることを知らずにその行為をなしたものは罪を逃れることができないという意味である。
国会での大臣や役人たちの答弁を聴いていると、彼らがこの法諺を熟知していることわかる。国民に疑念を抱かせるような行為について「あった」と言えば責任を取らなければならない。「なかった」と言えば、後から「あった」という事実が判明すると虚偽答弁になる。そこで、窮余の一策として彼らが採択したのが「国民に疑念を抱かせるような行為があったかなかったかについての記憶がない」という「事実の無知」による弁疏であった。事実の無知については、これを処罰することができないから、これは遁辞としては有効である。
けれども、政治家や官僚がかかる弁疏を繰り返した場合には「重大な事実について頻繁に記憶が欠如するような人間が果たして国政の要路にあってよろしいのか」という懸念が生じることは避けがたい。
その懸念をどうやって解消するか?
この懸念を退けるロジックは一つしかない。それは「知的に不調であることは政治家や官僚の職務遂行上の欠格条件ではない」というルールを政府が公認することである。
いや、改めて公認するまでもなく、わが国はだいぶ前からこの新ルールを採用していた。記憶がしばしば欠損する、論理的にものが考えられない、事前に告知された質問にしか回答できない、不都合な質問についてはつねに回答を差し控える・・・といった知的無能は今では公人である上での特段の支障とは見なされていない。それどころか、おのれの立場を危うくしかねない質問には一切回答しないで正面突破するというふるまいそのものが「権力」及び「権力に対する忠誠心」の記号として高く評価されさえする。
知的無能が指導者の資質として肯定的に評価されるような統治システムのことを「イディオクラシー」と呼ぶ。「愚者支配」である。デモクラシーが過激化したときに出現する変異種である。
フランスの青年貴族トクヴィルは二百年前に、アンドリュー・ジャクソン米大統領に面会した後、その印象をこう記している。「ジャクソン将軍は米国人が彼らの大統領に二度選んだ人物だが、性格は粗暴、能力は凡庸、その全経歴を閲しても、自由な人民を統治するために必須の資質を有していることを証明するものは何もない。」(『アメリカのデモクラシー』)
アメリカ人はしばしば指導者の選択を誤る。それは知性においても徳性においても、自分たちと同程度の人間を指導者に選ぼうとするからであるとトクヴィルは考えた。同類なのだから、国民の利害と指導者の利害は一致する。もし、知性も特性も国民をはるかに超えたリーダーを選んでしまうと、彼が「これが国益を最大化する道だ」と信じて断行した場合に、国民はそれに反対でも、止めることができない。力のあるリーダーは民意に反した政治ができる。それを止めるためには凡庸だけれど、人民と利害を共有するリーダーを選ぶ方がいい。凡庸な統治者は人民と対立してまで貫き通したい政治的信念を持っていないし、貫く実力もない。
「もし統治者と民衆の利害が異なった場合、統治者が有徳であることは無意味であり、有能であることはむしろ有害になるであろう。」そうトクヴィルは論じた。
なるほど一つの見識である。
デモクラシーのことを貶下的に「衆愚政治」と呼ぶが、それは「指導者と国民の愚かしさが同程度」ということである。それならば、外から見て、知力について足りないことを指摘できたとしても、国内的には指導者と国民の利害は一致している。
いまの日本はどうだろうか。
為政者が「どうすれば国力を向上させ、国民の健康や安全や豊かさを実現できるのか」その道筋を考えることがもうできなくなった。最優先するのは自分の権力の維持である。そのためには国民の支持が必要なのだが、どうすることが公共の福祉に資するのかがわからない。
しかたがないので、それが公共の福祉に資するかどうかわからないけれど、とりあえず「自分がやりたい」ことをやることにした。国民全体の利害を計る方法が思いつかないので、とりあえず自分の周りにいる人間の利害だけを計ることにした。
これが「イディオクラシー」である。指導者も有権者も、知性においても徳性においても、とくにすぐれているわけではないし、そうである必要もないという点ではデモクラシーとよく似ているが、指導者が国民の利害を配慮する努力を放棄したという点が新しい。
驚くべきことは、それを少なからぬ国民が支持しているということである。
支持する理由は、イディオクラシーは仕組みがひどくシンプルだからである。
指導者は国民の利害を配慮していないけれど、「取り巻き」の利害は配慮してくれる。だから、権力者の「取り巻き」になれば、自分一個の利益は実現し、権力の恩沢に浴することができる。権力者の縁故者がそのまま「公人」として遇され、そこに公金が投じられ、公的支援が集中する。
「桜を見る会」の招待基準を訊かれて、当時官房長官だった菅は、「各界で功績のあった人を幅広く招待している」と説明した。「各界で功績のあった人」の中には後援会の会員や安倍支持を公言する言論人や芸能人たちが大量に含まれていた。
このときに「権力者に近い人間=公人=公的な支援を受ける資格のある人間」という新しい基準が確定した。かつては「国民の利害」という独立した概念が存在した。いまはもうそのようなものはない。「集合的な利害」というような複雑で規模の大きなものを構想する知力がなくなってしまったからである。それよりは「個人の利害」を優先させる。こちらの方が話が簡単だ。
国が滅びても、自分の私腹が肥えるなら別に困らないという人たちの数がもう少し増えて、過半を超えた頃に日本のイディオクラシーはその完成を見るだろう。これは『1984』的ディストピアとはまったく別種のディストピアである。