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人生の黄昏時近くになって、「これとは別の人生があったのではないか」という悔いに胸をかきむしる・・・というのは、男女を問わず、それほど珍しいことではないのだと思うけれど、それにしてもM***の手紙は傷ましかった。
2021年6月15日の内田樹さんの論考「Mからの手紙」(前編)をご紹介する。
どおぞ。
旧友のフランス人M***から久しぶりのメールが届いた。不思議な内容の依頼だった。僕たちは昔ある大学でフランス語の教師として一緒に働いていた。うちの娘と同年のお嬢さんがいて、娘たち二人はすぐに仲良くなった。それもあってそれから家族ぐるみで付き合うようになった。僕が神戸に移った年に「フランスに遊びにおいで」と誘ってくれたので、一夏を彼の故郷に近い南仏の海岸で過ごした。
彼は日本を舞台にした「伊藤さん」という短編集を書き上げており、それを日本で出版したいというので、僕がそれを翻訳することになった。その夏は海岸で二人で草稿の上で「これはどういう日本語に訳したらいいんだろう」というようなことを話していた。
『伊藤さん』はウェルメイドな短編集だったけれど、無名のフランス人の小説を出版してくれるところは日本には見つからず、その本は結局フランスの出版社から出ることになった。残念ながら、それほど注目されず、作家になるというM***の夢はそれでついえてしまった。
ペダゴジーの学位をとって日本の大学のテニュアを取ろうとしたが、うまくゆかず、このまま一生「外国人枠」の語学教師で過ごすのにたぶん耐えられなくなって、日本を離れた。それからアフリカに移り住んで映画の仕事をするようになった。ときどき送られてくる手紙で、離婚して、新しいパートナーがいることは知っていたので、アフリカに落ち着いてよかったと思っていた。そしたら、ある日次のようなメールが届いた。
人生の黄昏時近くになって、「これとは別の人生があったのではないか」という悔いに胸をかきむしる・・・というのは、男女を問わず、それほど珍しいことではないのだと思うけれど、それにしてもM***の手紙は傷ましかった。
もしこれを読んで、私がM***が愛した女ですと気がついた人がいたら、僕に連絡をして欲しい。もちろん、自分のことだと気がついたけれど、もう過ぎたことだから・・・で忘れてもらっても構わない。M***はとにかくその人にこの手紙を読んで欲しいということだから、その望みは果たされたことになる。
最初は僕宛ての個人的な手紙。その後がその女性宛ての手紙である。僕宛ての手紙をつけておかないと意味がわからないだろうから、私信だけれど、一部を伏字にして公開する。
友へ
君あてのこのメッセージはたぶん僕がこれまで君に書いた中で最も重要なものになると思う。
まず君が元気でいて、僕の知っているあの気づかいの行き届いた、人間的な君のままでいることを願っている。こんなことを言うのは、君は僕がこれから君に告白するようなことを告白できるただ一人の人間だからだ。
このメールには一通の手紙が添付されている。タイトルは「ケイコへの手紙」だ。僕はこれをある日、夢から醒めた時に書いた。その夢は僕を深く揺り動かした。
まず君にはこの手紙を読んで欲しい。僕はこの手紙をケイコが読んでくれることを望んでいる。僕はこの手紙を読んで欲しくて彼女にメールを送ってみた。でも、それは「宛て先人不明」で僕のところに返送されてきた。
ケイコを探す手伝いをしてくれないだろうか。彼女の姓は「****」だ。今年60歳になっていると思う。結婚していて、子どもが男女一人ずつ二人いる。出身地は****だ。僕がはじめて会った時、彼女は音楽大学の学生で、ピアノを専攻していた。とても優秀なピアニストだった。
君にお願いしたいのは、この手紙を日本語に訳して、それを君のブログの一つに投稿することだ。手紙はいまのところ2頁だけれど、もっと長いものを書くこともできた。それくらい僕には書きたいことがたくさんある。
この手紙が彼女の手元に届く可能性はあると思う。彼女はいかにも君の読者でありそうな女性だからだ。
僕はあと二カ月で71歳になる。僕が見た夢はそのあまりの明確さで僕を揺り動かした。僕が生きたかも知れない人生、そして僕が生きなかった人生についての一本の映画のようだったのだ。
ケイコは『伊藤さん』というあの短編集の中の「マリコ」のモデルになった女性だ。人生というのはまるで円環のようだと思わないか。あらゆるものは再帰してくる。
こんなお願いをしたことで君に迷惑をかけたくはないけれど、できたら返事が欲しい。
友情をこめて
M***