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長い人生を過ごしてきた後に、ほんとうに長い歳月の後に、四十年も経ってから、僕は夢の中で君を再び見出して驚愕のうちに目覚めた。
2021年6月15日の内田樹さんの論考「Mからの手紙」(後編)をご紹介する。
どおぞ。
ケイコへの手紙
夢でなかったら・・・
という言葉で目が覚めた。それが夢でなければよいと思う驚くべき夢からいきなり目覚めた。夢の中で僕は夢を見ていた。シェークスピアの悲劇における「物語の中の物語」のように。物語の中の物語、人生の中の人生。今も僕は夢のうちにいるのか、あるいは夢の終わりにいるのか。
長い人生を過ごしてきた後に、ほんとうに長い歳月の後に、四十年も経ってから、僕は夢の中で君を再び見出して驚愕のうちに目覚めた。「これが夢でなければいいのに」と僕ははっきりした声でつぶやき、その自分の声で夢から醒めた。
ケイコ、僕は君を愛していた。生涯愛し続けていた。そして、そのことに気づかなかった。というより、そのことに気づきたくなかった。認めたくなかったのだ。僕は僕の人生を生きたかったからだ。自分の冒険を生きたかった。自分の波乱を生きたかった。自分の束の間の幸福を生きたかった。自分の終わりのない苦痛を生きたかった。僕はあまりにも若かった。僕たちはあまりにも若かった。僕は自分の不安を忘れたかったのだ。何をしていようと、何を企てようと、いつもその不安がつきまとっていた。その不安のせいで、僕たちは生きるべき人生を、生きることができた人生を生きることができなかったのだと思う。「もしも」今とは違う人生を選んでいたら・・・。人生についてのこの「もしも」が僕たちをこの歳月の間、僕たちを存在させ、存続させてきた。「もしも」そうすることができていたら、「もしも」そうすべきであったとしたら・・・
僕は君と人生を共にすることもできた。僕があの時に走っていた列車から飛び降りるようなことをしなければ、僕は今とは別の道を歩むことになっただろう。けれどもご存じのように、僕は逃げ出した。自分の運命を逃げ出して、別の運命を選んだ。そして、今、夢から醒めて、驚嘆すべきであると同時に恐ろしい夢から醒めて、僕は自分に向かって、君に向かってこう言う。「ケイコ、僕は君と生きることができなかった。だから、今の僕が願うのは、君と共に死ぬことだ。」
君と共に死ぬこと。ひどく哀しい言葉だし、ひどくドラマティックな言葉だ。ふつう人はそんなことは口にしない。ふつうは「愛する人よ、君と共に生きたい」と言う。そして、ぼくはたしかにそう言うこともできたのだ。そう言い切ることもできたのだ。あの日に、夢から醒めたあの朝には。
その夢の中で僕は君と再び出会った。原宿のカフェでソファーに座っていた若い日本人女性としてではなくて、君がそのあとそうなった美しい女性として。
僕が僕の人生のこの時に至って言えることは、言いたいことは、君と共に死にたいということだけだ。長い歳月の後に、素晴らしいものであり得た長い歳月の後に、言いたいのはそのことなのだ。ケイコ、僕がおのれの存在の根底から望んでいるのはそのことなのだ。
今日は5月16日だ。今日は君の誕生日だったのではなかっただろうか。違っていてもいい。今日は君の誕生日で、僕たちの誕生日だ。今僕はケニアにいる。アフリカのケニアだ。そして、二十歳の時のケイコが僕に言った言葉を思い出している。「姉のヨウコはヨーロッパに行きたがっている。パリや、ロンドンに。でも、私はアフリカに行きたい。」
君の若い唇から出たその言葉は前兆的なものだった。君の唇はそうやって僕の運命について語っていた。運命そのものについて語っていた。
夢なのかそれとも夢の名残りなのか。
僕はあまり夢を見ない。ごくまれにしか夢を見ない。夢で覚えているのは、ぼんやりと、自分がどこにいて、誰が一緒かくらいまでだ。でも、今朝、僕はまるで本当の映画のような夢から目覚めた。それは日本で、僕たちはアフリカのケニアから戻ったところだった。マックスが僕と一緒で、「日本の経験者」として僕がガイド役のようなものを務めていた。マックスは丸い眼鏡をかけた背の高い男で、ケニアで僕と一緒にアニメーション映画の制作プロジェクトにかかわっている。そのテーマの一つが日本なのだが、夢との関連はそこまでだ。僕たちがプロジェクトのために使ったのは職業的なコネクションや僕の友人たちとの関係で、そのときはケニアの植物をフクオカ先生という専門家が発案した土の玉を使って育てるというプロジェクトにかかわっていた。
夢の中で僕たち、僕たちは地球の裏側のアフリカからこの国に招かれてきていたようだった。どうやら僕たちのプロジェクトはこの国である程度の評判を得たらしい。なにしろ夢の中だから、詳しいことはよくわからない。はっきりしているのは、道路や、レストランや、ホテルのような場面の細部だけで、それ以外のすべてはあいまいで、混じり合い、散乱している。
でも、ある瞬間に記憶は一気に鮮明になり、くっきりとしてきた。僕は演壇のようなところの横に腰を下ろしている。部屋にはたくさんの聴衆がいる。どうやら僕はこの注意深い日本人たちの前で一席語った後のようである。きっと僕を日本に連れてくることになったプロジェクトに関係する記者会見のようなものがあったのだろう。日本は僕の青春の土地である。青年として最初の戦いの場であり、大人としてのほんとうの人生が始まった土地でもある。
拍手があった。談話がたぶん終わったのだ。人々が立ち上がり始めた。僕も席から立ち上がった。その時、君に気がついた。
最初は僕の向かい側の席に一人の女性が座っていることしかわからなかった。演壇が邪魔をして顔が見えなかったのだ。その女性はもう若くはなかったが、とても美しい人だった。彼女は挨拶するために近づいてくる人たちにエレガントな微笑を送っていた。その時、僕はそれが君だということがわかった。ケイコ、遠い昔の恋人。そのとき君に対する愛が、これだけ長い歳月に隔てられていたにもかかわらず、僕を満たし、僕の中にあふれ返り、僕の息を止めてしまった。僕は気づくと君に向かって歩いていた。部屋の中の物音も、人々の話し声もかき消えた。すべてが消え去り、すべてが輪郭を失った。君だけが残った。君は気配に気づいて、ゆっくりと顔をこちらに向けた。そして、笑みをたたえたまま、近づいてくる僕をみつめた。僕はそのときにはもう君のすぐ近くまで行っていて、はっきりしない、かすれた声で、「ケイコ」と君の名を呼んだ。僕を見上げる君の眼が輝いた。君の唇が少し開いて、そこから「ノオオオオ」という物憂げなかすれ声が漏れた。それは信じられない喜びをあらわにしていた。それは心の中から湧き上がる、愛のあえぎ声だった。