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他の多くの場合と同じように、自分が何を逃してしまったのかに気づくのはずっと歳月が経った後だ。
2021年8月9日の内田樹さんの論考「Mからの手紙(つづき)」をご紹介する。
どおぞ。
ケイコへの手紙(続き)
今日もケイコの夢を見た。夢は私に取り憑いているのか、それとも私に棲みついてしまったのか。
私はとりあえず一本の映画を観ることにした。聴いたこともない映画だ。でも、この映画はその最初の画面から、私の見た夢と完全に調和していた。俗世を離れて、一人で暮らす写真家がいきなりある音楽に文字通りとらえられる。それは中庭をはさんで彼の家の向かい側のアパルトマンから聴こえてきた。彼は窓越しに若い女性がピアノを弾いているのを見る。ショパンの『革命』だ。記憶が私の中に噴き出してくる。
あれは東京が厚い雪で覆われていた日のことだった。ある現象が起きた。時々起きたことだけれど、その日は特別だった。交通が乱れて、身動きならなかった。ケイコはその頃都心から離れた郊外に住んでいた。私はいつも彼女の家で会っていた。携帯電話がまだ存在していなかった時代だった。日本でも携帯電話が登場するのは、それより少し後のことだ。だから、私たちは街角に並んで立っている公衆電話を利用して連絡を取り合った。
そんな公衆電話の一つから連絡が入った。その頃、私はヤマハのモトクロスバイクに乗っていた。雪道向きの乗り物ではあったが、タイヤが滑って、走らせるのは容易なことではなかった。愚かなことをしたものだが、私はためらわずにバイクに乗った。
寒さに凍え、疲れ切ったけれど、事故もなく私は目当ての場所にたどりついた。東京の迷宮のような道路をたどることの困難さを知っていれば、私の苦労が想像できると思う。ケイコは道路の端まで出てきて私を待っていた。水夫の妻が気まぐれで、危険の多い海に船出した夫を不安げに待つように。ものも言わずにケイコは私を彼女の小さなアパートの部屋に導き入れた。部屋は外の寒さに比べると暖かく、居心地がよかった。
彼女は私をソファに座らせて、足元に暖房を置いて、日本人が寒い時期に愛用する毛布で私の脚を包んでくれた。私の手の届く、低いテーブルの上には湯気の立つお茶が置かれていた。私に不足しているものがないかを何度か確かめたあとに、彼女はピアノに向かった。
私は半ば彼女の巻き毛で覆われた彼女の背中を見ていた。しばらく無言でいたあと、彼女の指は動き、楽音が溢れ始めた。すばらしい音楽だった。いささか攻撃的であったけれど、なんというかまっすぐ目的地に向かうような音楽だった。それが何の曲なのか、私はその頃知らなかったけれど、その曲の美しさよりも、華奢な背中が発するエネルギーに私は感動したことを覚えている。
ケイコは一番好きな作曲家はショパンだと私に教えてくれた。でも、私はそれが何を意味するのかよくわかっていなかった。他の多くの場合と同じように、自分が何を逃してしまったのかに気づくのはずっと歳月が経った後だ。部屋の半分をピアノが占めるその狭いアパートの部屋で過ごした魔法のような時間、外の物音は寒気と雪に消し去られてしまった広がりの中に消え去った特権的な時間を私は無為に過ごしてしまった。若すぎて、人生が私に与えてくれた贈り物の美しさを分からなかったのだ。
人生は残酷で美しい。人生は一度切りで、時間は止まってくれない。でも、そのことを教えないまま時は流れる。映画の用語を使って言えば「リテイク」はなしだ。人生には「アクション!」だけしかない。俳優がダメでも、撮り直しはできない。人生はたしかに残酷だ。でも、だから美しい。
夢は、あのパーティ会場のような場所での再会の後もごく自然に続いた。途切れることもなく、たいした会話もなく、まるでそれまでの長い不在にもかかわらず、言うべきことはすべて言い終わってしまったかのように。眼が、微笑みの澄んだまなざしが多くを語っていた。
ほとんど現実のように思われるシーンと理想化されたイメージ。そこに登場する人たちも、背景も、行動も、会話も、まるでマエストロの魔術的な指揮棒に合わせて交響楽のように完全な調和を保ち、切れ目なく混ざり合っている。
気がつくとマックスが私というか、私たちの前に立っていた。ケイコはその時には私のすぐそばに立っていた。ケイコは巨漢マックスの前では、とても小さく思えた。彼女は彼を見上げた。彼は微笑みながら彼女を見つめていた。マックスは私にまなざしを向け、再び彼女を見た。私の声が聞こえた。「マックス、僕の生涯の恋人を紹介するよ。」まるで珍しいものでも見てきたように、まるで信じられない知らせを聞いたように、彼の顔が喜色にあふれた。ゆっくりと彼はケイコの方を向いた。私が彼を日本人に紹介すると、それが男性でも女性でも、彼は日本式の挨拶をした。頭を下げ、胸をわずかに傾け、両手を翼のように広げ、身体を二つに折った。でも、今回は違った。マックスは初めて会うのだけれど、まるでずっと以前から憧れていた女性に接するようにこの小さな女性の身体を抱いた。
そこから夢は、陽光の下を川が流れるように、また別の流れをたどる。笑い声、喜びの表情、熱い陶酔感、物憂い甘美さ・・・夢の映画は私の眠りのスクリーンの上に映し出されていった。私の眼には遠い昔に失い、そして今また再び見出したこの女性の姿しか見えなかった。私はもうこの人から決して離れない。もう二度と、最後まで・・・私の心臓は幸福で高鳴っていた。そして、その時に私はこうつぶやいた。「これが夢でなかったら・・・これが夢でなかったら・・・」夢の中で発されたその言葉は私を夜の寝台の上に一人置き去りにした。