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「私は罹っていないし、私の周りにも罹患者はいないが、だからといって『たいしたことはない』と推論することはできない」というふうに、「自分の知見の汎用性を過信しない」
2021年8月12日の内田樹さんの論考「医学生ゼミナールの質疑応答」をご紹介する。
どおぞ。
8月11日に医学生ゼミナールというところで医学生たちを対象のオンライン講演を行った。タイトルは「ポストコロナの世界と医療」。90分しゃべった後で30分ほど質疑応答したけれども、時間が足りなくて、残りの質問はメールで送ってもらった。それへの回答を採録しておく。
Q:いま学部2年生で将来は、素粒子物理学の研究者としてアカデミックな世界に入ることを志している者です。
基礎的な学問について基礎研究の公費を政府に要求するにあたって、基礎研究に否定的な人たちを説得するために、何をどう伝えれば良いのか。
A:「基礎研究に否定的な人たち」というのは言い換えると「長いタイムスパンの中でものを考えることが苦手な人たち」です。
どのような歴史的な風雪を経て現在の科学技術が形成されてきたのか、このあとどのようなかたちで進化変遷してゆくのかを百年千年という単位で考えたことがなく、せいぜい数年、悪くすると四半期くらいの間に「その技術でいくら儲かるのか」というようなことばかり考えている人たちです。平たく言うと「頭の悪い人たち」です。
最大の問題は「そういう人たち」が日本のこれからの科学技術のあり方を決定する立場にいるということです。
ご質問は「頭の悪い人に賢い決定を下させるためにはどうしたらいいのか?」と言い換えられると思いますが、残念ながら、それは不可能です。僕たちにできるのは「頭の悪い人たちが政策決定できるような統治の仕組みを時間をかけて変えてゆくこと」だけです。
Q:平時から緊急時へ柔軟に舵を切るためには普段からどのようなことを意識すればいいのでしょうか。また、非常時を非常時だと認識するということがなにより重要だと思うのですが、それを認識できるバランス感覚の養い方や社会へのアンテナの張り方などありましたら教えて頂けると幸いです。
A:平時から非常時への切り替えはとても難しいです。平時というのは「自分が見ているもの、自分が知っていること、自分ができること」だけに基づいて判断し、行動しても大きなミスは犯さないという状況のことです。例えば、感染症について「私は罹っていないし、私の周りにも罹患者がいない」という事実から「だから、たいしたことはない」というふうに推論するのが「平時の発想」です。
それに対して、「自分の知見だけに基づいて判断したのでは状況が把握できないかもしれない」というふうに考えて、とりあえず自分の意見や信念は「かっこに入れて」、さまざまな専門的知見を先入観なしに吟味するというのが「非常時の発想」です。感染症についてなら、「私は罹っていないし、私の周りにも罹患者はいないが、だからといって『たいしたことはない』と推論することはできない」というふうに、「自分の知見の汎用性を過信しない」というマインドセットのことです。
別にそれほどむずかしいことではありません。
ふだんから自分の意見や信念に固執しないで、ひろびろとした心地で人の話を聴いて、他人の目からは世界はどう見えるのかについて想像力を働かせるように努めていると、非常時の切迫はわかります。非常時になると、多くの「他人たち」が一斉にふだんとは違うノイズを発信し、ふだん見ているのとは違う景色を見るようになるからです。
非常時に適切に対応できる人というのは「ふだんから、人の話をきちんと聞く人」「自分の理解を超えた話を聴いても、『そんなことあるわけない』と切り捨てたりしない人」のことです。これって、よく考えると医療従事者にとっても、教育者にとっても、必須の資質ですね。
Q:過度なグローバリズムによって国民経済が疲弊することで「ネイションへの回帰」が起こるとエマニュエル・トッドが言っていましたが、フランスのルペン率いる国民戦線やトランプなど「反グローバリズム」に親和的な政治勢力は排外主義的な傾向があると思います。どのようにしたら国際協調(あるいは国内の融和)と国民経済(国民を飢えさせない)を両立できるでしょうか。
A:グローバリズムというのは言い換えると「無国籍主義」「徹底的な個人主義」のことですから、それに対する反動としてある種の「集団主義」が登場してくることは歴史的必然だと思います。
問題なのは、グローバリズムへの反動が強すぎて、行き着く先が僕たちが扱い慣れている「ナショナリズム」ではなくて、もっとずっと野蛮で暴力的なその先駆的形態、前近代的な「トライバリズム(tribalism)/部族主義」になりそうだということです。
ヨーロッパでもアメリカでも日本でも、いま起きているのは「ナショナリズムの復活」ではありません。もっと狭隘で、もっと排他的で、もっと暴力的な「ネーションの分断」です。人種、性別、宗教、政治的イデオロギー、性的指向、出自、階級、財産、学歴などさまざまな指標で「ネーション」が分断されています。
例えば、日本の「自称ナショナリスト」たちの主務は「誰が日本人ではないか」という選別と排除です。在留外国人はもちろん「非国民」とみなされますが、政府の政策に反対する人間も「反日」認定され、「在日日本人」という「二級市民」に類別されます。
近代のナショナリズムというのは本来、それまでばらばらに対立していた集団を統合して、「国民」という「想像の共同体」を立ち上げようとした力業です。幻想による集団統合ですからもちろんかなり無理があります。それでも「国民」のサイズをできるだけ大きなものにしてゆくという目的は悪いものではなかったと僕は思います。サイズを大きくするためには成員の多様性をある程度までは認めなければならないからです。
トライバリズムはナショナリズムとはベクトルが逆のものです。それまでなんとか想像的に統合されていた集団を分解して、「ほんとうの国民/偽の国民」の間に分断線を引いて、集団を純血化し、集団を小さくしてゆくことをめざします。
ナショナリズムとトライバリズムを混同してはいけません。
例えばアメリカではトランプは国民を意図的に分断することで政治的浮揚力を得ようとしましたが、これはトライバリストのやり方です。一方バイデンは選挙後に「トランプ支持者を含めて全国民を代表する」と宣言しました。これがナショナリストの言い分です。
ルペンやトランプや世界の「排外主義者たち」はトライバリストであって、ナショナリストではないというのが僕の考えです。
国際協調と国民統合を両立させるためには、「純血」や「純粋」をめざす集団よりも、できるだけたくさんの人たちを「身内」「同胞」として迎え入れることのできる寛容な集団の方が好ましい。でも、そのために使える政治的な装置は手元には「ナショナリズム」しかありません。いきなり「70億人類はみな同胞です」と言っても、70億人を同じ統治システムの中に繰り込み、同じ法に従わせることは不可能です。
だから、とりあえず手元のナショナリズムを改良して、「できるだけ害が少なく、利益の多いナショナリズムのかたち」をみんなで考えて、手作りしてゆくしかトライバリズムに効果的に対抗できる道具はないのではないかと僕は考えています。