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内田樹さんの「憲法の話(長いです)」(その2) ☆ あさもりのりひこ No.1080

戦中派は二つのことがらについて沈黙していたと私は考えている。一つは戦争中における彼ら自身の加害経験について。戦時の空襲や機銃掃射の被害経験に関してはずいぶん雄弁に語ってくれたが、加害者として、中国大陸や朝鮮半島や台湾や南方において、自分たちが何をしたのかについては何も言わなかった。どういうふうに略奪したのか、強姦したのか、拷問したのか、人を殺したのか、そういうことについて子どもにも正直に語った大人に私は会ったことがない。

 

 

2021年11月3日の内田樹さんの論考「憲法の話(長いです)」(その2)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 戦中派は二つのことがらについて沈黙していたと私は考えている。一つは戦争中における彼ら自身の加害経験について。戦時の空襲や機銃掃射の被害経験に関してはずいぶん雄弁に語ってくれたが、加害者として、中国大陸や朝鮮半島や台湾や南方において、自分たちが何をしたのかについては何も言わなかった。どういうふうに略奪したのか、強姦したのか、拷問したのか、人を殺したのか、そういうことについて子どもにも正直に語った大人に私は会ったことがない。

 それは戦争経験文学の欠如というかたちでも現れていると思う。以前に高橋源一郎さんに教えてもらったのだが、敗戦直後にはほとんど見るべき文学的達成はない。戦争から帰ってきた男たちが戦争と軍隊について書き出した最も早い例が吉田満の『戦艦大和ノ最期』で、これは46年には書き上げられていた。大岡昇平の『俘虜記』が48年。50年代になってからは、野間宏の『真空地帯』、五味川純平の『人間の条件』、大西巨人の『神聖喜劇』といった「戦争文学」の代表作が次々と出てくるが、加害経験について詳細にわたって記述した作品は私の世代は少年時代についに見ることがなかった。

 ただ、私は戦中派の人たちのこの沈黙を倫理的に断罪することにはためらいがある。かれらの沈黙が善意に基づいたものであることが分かるからだ。

 ひどい時代だったのだ。ついこの間まで、ほんとうにひどいことがあった。たくさんの人が殺したり、殺されたりした。でも、それはもう終わった。今さら、戦争の時に自分たちがどんなことをしたのかを子どもたちに教えることはない。あえて、そんなことを告白して、子どもたちに憎まれたり、軽蔑されたりするのでは、戦争で苦しめられたことと引き比べて、「間尺に合わない」、彼らはたぶんそう考えたのだと思う。子どもたちには戦争の詳細を語る必要はない。子どもたちに人間性の暗部をわざわざ教えることはない。ただ「二度と戦争をしてはいけない」ということだけを繰り返し教えればいい。戦後生まれの子どもたちは戦争犯罪について何の責任もないのだから、無垢なまま育てればいい。戦争の醜い部分は自分たちだけの心の中に封印して、黙って墓場まで持って行けばいい。それが戦後生まれの子どもたちに対する先行世代からの「贈り物」だ、と。たぶんそういうふうに考えていたのではないかと思う。戦争の罪も穢れも、自分たちの世代だけで引き受けて、その有罪性を次世代に先送りするのは止めよう。1945年8月15日以降に生まれた子どもたちは、新しい憲法の下で、市民的な権利を豊かに享受して、戦争の責任から完全に免罪された存在として生きればいい。その無垢な世代に日本の希望を託そう。そういうふうに戦争を経験した世代は思っていたのではないか。そうでなければ、戦中派の戦争の加害体験についての、あの組織的な沈黙と、憲法に対する手放しの信頼は説明が難しい。

 

 例えば私の父親がどういう人間であるか、私はよく知っているつもりでいる。筋目の通った人だったし、倫理的にもきちんとした人だったから、彼が戦争中にそれほどひどいことをしたとは思わない。父は10代の終わりから30代の半ばまで大陸に十数年いたが、戦争中に中国で何をしていたのかは家族にさえ一言も言わなかった。北京の冬が寒かったとか、家のレコードコレクションが何千枚あったとかいう戦争とは無関係な個人的回想も、ある時期から後はぱたりと口にしなくなった。戦争中についての出来事は語らないというのは、あの世代の人たちの暗黙の同意事項だったのではないかという気がする。

 自分たちの戦争犯罪を隠蔽するとか、あるいは戦争責任を回避するといった利己的な動機もあったかもしれない。しかし、もっと強い動機は、戦後世代をイノセントな状態で育ててあげたいということだったと私は思う。そういう穢れから隔離された、清らかな、戦後民主主義の恩恵をゆたかに享受する資格のある市民として子どもたちを育てること、それこそが日本の再生だ。この子たちが日本の未来を担っていくのだ。そういう希望を託されてきたという感覚が私にはある。それは私と同年代の人は多分同意してくれると思うのである。

 私が小学校5年の時の担任の先生がその頃で35歳ぐらいだった。もちろん戦争経験がある。私はその先生が大好きだったので、いつもまつわりついていた。何かの時に「先生は戦争行ったことある?」と聞いたら、ちょっと緊張して、「ああ」と答えた。で、私がさらに重ねて「先生、人殺したことある?」と聞いたら、先生は顔面蒼白になった。聞いてはいけないことを聞いてしまったということは子どもにもわかった。その時の先生の青ざめた顔色を今でも覚えている。大人たちにはうかつに戦争のことを聞いてはいけないという壁のようなものを感じた。