〒634-0804
奈良県橿原市内膳町1-1-19
セレーノビル2階
なら法律事務所
近鉄 大和八木駅 から
徒歩3分
☎ 0744-20-2335
業務時間
【平日】8:50~19:00
【土曜】9:00~12:00
「日本国民は存在しない」「われわれは憲法制定の主体ではない」という事実から目を逸らした。それがいけなかったのだと思う。
2021年11月3日の内田樹さんの論考「憲法の話(長いです)」(その4)をご紹介する。
どおぞ。
護憲論を批判するのは簡単である。こんなもの、ただの空語じゃないか、「絵に描いた餅」じゃないか、国民のどこに主権があるのか、「平和を愛する諸国民の公正と信義」なんか誰が信じているのか、国際社会が「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」なんて白々しい嘘をよく言えるな。そう言われると、まさにその通りなのだ。
憲法前文には、「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と書いてあるが、そもそも「日本国民」というもの自体が擬制である。憲法が公布された1946年の11月3日の段階では、事実上も権利上も、「日本国民」などというものは存在していなかったのだから。公布前日の11月2日までは、列島に存在したのは大日本帝国であり、そこに暮らしていたのは「大日本帝国臣民」であって、「日本国国民」などというものはどこにもいなかった。どこにもいなかったものが憲法制定の主語になっている。「この主語の『日本国民』というのは、誰だ?」と切り立てられたら、答えようがない。
日本国憲法を制定した国民主体は存在しない。存在しない「日本国国民」が制定した憲法であるというのが日本国憲法の根源的な脆弱性である。
と言っておいてすぐに前言撤回するのもどうかと思うが、実は世の中の宣言というのは、多かれ少なかれ「そういうもの」なのだ。宣言に込められている内容はおおかたが非現実であるし、宣言している当の主体自体だって、どれほど現実的なものであるかは疑わしい。
例えば1776年公布のアメリカ独立宣言は「万人は平等に創造された」と謳っているが、実際にはそれから後も奴隷制度は続いた。奴隷解放宣言の発令は1862年であり、独立宣言から100年近く経っている。むろん、奴隷解放宣言で人種差別が終わったわけではない。公民権法が制定されたのは1964年。独立宣言から200年経っている。そして、もちろん今のアメリカに人種差別がなくなったわけではない。人種差別は厳然として存在している。しかし、「独立宣言に書いてあることとアメリカの現状が違うから、現実に合わせて独立宣言を書き換えよう」と主張するアメリカ人はいない。社会のあるべき姿を掲げた宣言と現実との間に乖離がある場合は、宣言を優先させる。それが世界標準なのだ。
日本は違う。宣言と現実が乖離している場合は、現実に合わせて宣言を書き換えろということを堂々と言い立てる人たちがいる。それも政権の座にいる。
世界中どこでも、国のあるべきかたちを定めた文章は起草された時点では「絵に描いた餅」である。宣言を起草した主体が「われわれは」と一人称複数で書いている場合も、その「われわれ」全員と合議して、承認を取り付けたわけではない。自分もまた宣言の起草主体の一人であるという自覚を持つ「われわれ」をこれから創り出すために宣言というものは発令される。それが宣言の遂行的性格である。
それでいいのだと思う。日本国憲法制定時点では、「日本国民」なるものは現実には存在しなかった。でも、そこで掲げられた理念が善きものであるということが世の常識になり、「憲法を起草してくれ」と誰かに頼まれたら、すらすらとこれと同じ憲法を起草することができるような人々が輩出するなら、その時「日本国民」は空語ではなく、はじめて実体を持ったことになる。
この憲法を自力で書き上げられるような国民めざして自己造型してゆくこと、それが憲法制定以後の実践的課題であるべきだったのだ。ただ、そのためには、日本国民が「われわれは『日本国民』にまだなっていない。われわれは自力でこの憲法を起草できるような主体にこれからならなければならない」と自覚することが必要だった。
護憲論の弱さはそこにある。
護憲派はそのようには課題を立てなかった。そうではなくて、「日本国民は存在する」「私たちは憲法制定の主体だ」というところから話を始めてしまった。それが最初のボタンの掛け違えだったと思う。
たしかに憲法前文には、「日本国民」が集まって、熟議を凝らした末に、衆知を集めてこの憲法を制定したと書いてある。しかし、そういう歴史的事実はない。戦争に負けたのだから、そういう事実がなかったことは仕方がない。でも、いずれ衆知を集めて、このような憲法を自力で起草できるような国民主体として自己形成することを未来の目標に掲げるということはできたはずだし、しなければならなかったはずだ。しかし、戦後の日本人たちはそれをしなかった。「日本国民は存在しない」「われわれは憲法制定の主体ではない」という事実から目を逸らした。それがいけなかったのだと思う。
日本国民が憲法を制定したわけではないという誰もが知っている事実を「なかったこと」にしたせいで、それ以後の護憲論・改憲論の「ねじれ」は生まれた。
私たちは憲法制定の主体ではないと、素直に認めればよかったのだ。たしかに日本国憲法は日本国民が衆知を集めて起草したものではないが、仮にもう一度憲法制定のチャンスを与えられたら、自発的にこれと同じ憲法を自力で書けるような日本国民へと自己形成することはできる。それを遂行的な目標として掲げることはできたはずである。そうすべきだったと思う。
もちろん、戦中派の人たちの中にも、それに似たことを考えた人はいたと思う。でも、それは多数意見にはならなかった。たぶん、そんな困難な国民的課題を引き受けるだけの気力・体力がなかったのだと思う。日本は負け過ぎた。再起できないくらいに負けた。自力で敗戦の総括ができないくらいに、戦争責任の追及ができないくらいに負けた。国土は焦土と化し、明日の食べ物さえままならなかった。その状況で、「あるべき日本国民」に向けて、自己陶冶の努力をしようということを喫緊の国民的課題に掲げることはたぶん無理だったのだ。それよりはまず雨露をしのぎ、飢えを満たし、死者たちを弔い、傷ついた人たちを癒し、子どもたちを学校にやることの方が優先する。