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だから、彼らの沈黙には独特の重みがあった。実存的な凄みがあった。「その話はいいだろう」といって低い声で遮られたら、もうその先を聞けないような迫力があった。だから、彼らが生きているあいだは歴史修正主義というようなものの出る幕はなかったのだ。仮に「南京虐殺はなかった」というようなことを言い出す人間がいても、「俺はそこにいた」という人が現にいた。そういう人たちがいれば、具体的に何があったかについて詳らかに証言しないまでも、「何もなかった」というような妄言を黙らせることはできた。
2021年11月3日の内田樹さんの論考「憲法の話(長いです)」(その6)をご紹介する。
どおぞ。
戦争経験について、とりわけ加害経験について語らないこと、憲法制定過程について、日本は国家主権を失い、憲法制定の主体たり得なかったということを語らないこと。この二種類の「戦中派の沈黙」が戦後日本に修正することの難しい「ねじれ」を呼びこんでしまったのだと私は思っている。でも、私はそのことについて戦中派を責めるつもりはない。私たち戦後世代が戦争と無縁な、戦時における人間の醜さや邪悪さとも、敗戦の屈辱とも無縁な者として育つことを望んでいたからそうしたと思うからだ。
だから、彼らの沈黙には独特の重みがあった。実存的な凄みがあった。「その話はいいだろう」といって低い声で遮られたら、もうその先を聞けないような迫力があった。だから、彼らが生きているあいだは歴史修正主義というようなものの出る幕はなかったのだ。仮に「南京虐殺はなかった」というようなことを言い出す人間がいても、「俺はそこにいた」という人が現にいた。そういう人たちがいれば、具体的に何があったかについて詳らかに証言しないまでも、「何もなかった」というような妄言を黙らせることはできた。
歴史修正主義が出てくる文脈は世界中どこでも同じだ。戦争経験者がしだいに高齢化し、鬼籍に入るようになると、ぞろぞろと出てくる。現実を知っている人間が生きている間は「修正」のしようがない。それは、ドイツでもフランスでも同じだ。
フランス人も自国の戦中の経験に関しては記憶がきわめて選択的だ。レジスタンスのことはいくらでも語るが、ヴィシー政府のこと、対独協力のことは口にしたがらない。フランスでヴィシーについての本格的な研究が出てきたのは、1980年代以降。それまではタブーだった。その時期を生きてきた人たちがまだ存命していたからだ。自分自身がヴィシーに加担していた人もいたし、背に腹は代えられず対独協力をして、必死で占領下を生き延びた人もいた。彼らがそれぞれの個人的な葛藤や悔いを抱えながら、戦後フランスを生きていることを周りの人は知っていた。そして、それを頭ごなしに責めることには抵抗があった。
ベルナール=アンリ・レヴィが『フランス・イデオロギー』という本を書いている。ドイツの占領下でフランス人がどのようにナチに加担したのかを赤裸々に暴露した本だ。レヴィは戦後生まれのユダヤ人なので、戦時中のフランスの行為については何の責任もない。完全に「手が白い」立場からヴィシー派と対独協力者たちを批判した。しかし、出版当時、大論争を引き起こした。
少なからぬ戦中派の人々がレヴィの不寛容に対して嫌悪感を示した。レイモン・アロンもレヴィを批判して、「ようやく傷がふさがったところなのに、傷口を開いて塩を擦り込むような不人情なことをするな」というようなことを書いた。私はそれを読んで、アロンの言うことは筋が通らないが、「大人の言葉」だと思った。「もう、その話はいいじゃないか」というアロンの言い分は政治的にはまったく正しくない。しかし、その時代を生きてきた人にしか言えない独特の迫力があった。アロン自身はユダヤ人で、自由フランス軍で戦ったのであるから、ヴィシーや対独協力者をかばう義理はない。だからこそ、彼がかつての敵について「済んだことはいいじゃないか。掘り返さなくても」と言った言葉には重みがあった。
80年代からしばらくはヴィシー時代のフランスについてのそれまで表に出なかった歴史的資料が続々と出てきて、何冊も本が書かれた。しかし、ヴィシーの当事者たちは最後まで沈黙を守った。秘密の多くを彼らは墓場に持っていってしまった。人間は弱いものだから、自分の犯した過ちについて黙秘したことは人情としては理解できるが、結果的にヴィシーの時代にフランス人が何をしたのかが隠蔽され、歴史修正主義者が登場してくる足場を作った。戦争経験者の多くが死んだ後に、歴史修正主義者たちが現れて、平然と「アウシュヴィッツにガス室はなかった」というようなことを言い出した。そのあたりの事情は実は日本とそれほど変わらない。
アルベール・カミュの逡巡もその適例である。カミュは地下出版の 『戦闘』の主筆としてレジスタンスの戦いを牽引した。ナチス占領下のフランスの知性的・倫理的な尊厳を保ったという点で、カミュの貢献は卓越したものだった。だから、戦後対独協力者の処刑が始まった時、カミュも当然のようにそれを支持した。彼の仲間たちがレジスタンスの戦いの中で何人も殺されたし、カミュ自身も、ゲシュタポに逮捕されたらすぐに処刑されるような危険な任務を遂行していたのである。カミュには対独協力者を許すロジックはない。しかし、筋金入りの対独協力者だったロベール・ブラジャックの助命嘆願署名を求められた時、カミュは悩んだ末に助命嘆願書に署名する。ブラジャックの非行はたしかに許し難い。けれども、もうナチスもヴィシーも倒れた。今の彼らは無力だ。彼らはもうカミュを殺すことができない。自分を殺すことができない者に権力の手を借りて報復することに自分は賛同できない。カミュはそう考えた。
このロジックはわかり易いものではない。対独協力者の処刑を望むことの方が政治的には正しいのだ。だが、カミュはそこに「いやな感じ」を覚えた。どうして「いやな感じ」がするのか、それを理論的に語ることはできないが、「いやなものはいやだ」というのがカミュの言い分だった。
身体的な違和感に基づいて人は政治的な判断を下すことは許されるのかというのは、のちに『反抗的人間』の主題となるが、アルベール・カミュとレイモン・アロンは期せずして、「正義が正義であり過ぎることは人間的ではない」という分かりにくい主張をなしたのである。
レジスタンスは初期の時点では、ほんとうにわずかなフランス人しか参加していなかった。地下活動という性格上、どこで誰が何をしたのかについて詳細な文書が残っていないが、1942年時点でレジスタンスの活動家は数千人だったと言われている。それが、パリ解放の時には何十万人にも膨れ上がっていた。44年の6月に連合軍がノルマンディーに上陸して、戦争の帰趨が決してから、それまでヴィシー政府の周りにたむろしていたナショナリストたちが雪崩打つようにレジスタンスの隊列に駆け込んできたからだ。その「にわか」レジスタンスたちが戦後大きな顔をして「私は祖国のためにドイツと戦った」と言い出した。そのことをカミュは苦々しい筆致で回想している。最もよく戦った者はおのれの功績を誇ることもなく、無言のまま死に、あるいは市民生活に戻っていった、と。
『ペスト』にはカミュのその屈託が書き込まれている。医師リウーとその友人のタルーはペストと戦うために「保健隊」というものを組織する。この保健隊は明らかにレジスタンスの比喩である。隊員たちは命がけのこの任務を市民としての当然の義務として、さりげなく、粛々として果たす。英雄的なことをしているという気負いはないのだ。保健隊のメンバーの一人であるグランはペストの災禍が過ぎ去ると、再び、以前と変わらない平凡な小役人としての日常生活に戻り、ペストの話も保健隊の話ももう口にしなくなる。カミュはこの凡庸な人物のうちにレジスタンス闘士の理想のかたちを見出したようだ。
フランスにおける歴史の修正はすでに1944年から始まった。それはヴィシーの対独協力政策を支持していた人々が、ドイツの敗色が濃厚になってからレジスタンスに合流して、「愛国者」として戦後を迎えるという「経歴ロンダリング」というかたちで始まった。それを正面切って批判するということをカミュは自制した。彼自身の地下活動での功績を誇ることを自制するのと同じ節度を以て、他人の功績の詐称を咎めることも自制した。他人を「えせレジスタンス」と批判するためには、自分が「真正のレジスタンス」であることをことさらに言い立てて、彼我の差別化を図らなければならない。それはカミュの倫理観にまったくなじまないふるまいだった。ナチス占領下のフランスで、ヴィシー政府にかかわったフランス人たちがどれほど卑劣なふるまいをしたのかというようなことをことさらに言挙げすることを戦後は控えた。カミュは「大人」であったから。
各国で歴史修正主義がそれから後に跳梁跋扈するようになったのは、一つにはこの「大人たち」の罪でもあった。彼らがおのれの功績を誇らず、他人の非行を咎めなかったことが歴史修正主義の興隆にいくぶんかは与っている。「大人」たちは、歴史的な事実をすべて詳らかにするには及ばないというふうに考えた。誇るべき過去であっても、恥ずべき過去であっても、そのすべてを開示するには及ばない。誇るべきことは自尊心というかたちで心の中にしまっておけばいいし、恥ずべき過去は一人で深く恥じ入ればいい。ことさらにあげつらって、屈辱を与えるには及ばない。「大人」たちは、勝敗の帰趨が決まったあとに、敗者をいたぶるようなことはしない。対独協力者たちを同胞として改めて迎え入れようとした。人間的にはみごとなふるまいだと思うが、実際には「大人」たちのこの雅量が歴史修正主義の温床となった。私にはそんなふうに思える。
似たことが日本でもあった。それは戦中派の「大人たち」の私たち戦後世代に対する気づかいというかたちで現れた。憲法は自分たちで制定したものではない。日本国民なるものは空語であるということを彼らは知っていた。でも、自分たちに与えられた憲法は望外に「よきもの」であった。だったら、黙ってそれを受け容れたらよい。それを「日本国民が制定した」という物語に仕立て上げたいというのなら、あえて異論を立てるに及ばない。それは戦後世代の子どもたちに「親たちや先生たちがこの憲法を制定したのだ」というはなはだしい誤解を扶植することだったけれども、彼らはそのような誤解をあえて解こうとはしなかった。
彼らのこの生々しい願いが憲法の堅牢性を担保していた。そして、その人たちが死んでいなくなってしまったとたんに、私たちの手元には、保証人を失った一片の契約書のごときものとして日本国憲法が残された。