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内田樹さんの「大瀧詠一さんを悼んで」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.1106

はじめてお会いしたのは2005年の夏だった。

 

 

2021年12月30日の内田樹さんの論考「大瀧詠一さんを悼んで」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 はじめてお会いしたのは2005年の夏だった。その前年に『ユリイカ』で「はっぴいえんど特集」が組まれた。そのときに、メンバー四人それぞれのロングインタビューが企画され、僕が大瀧さんの対談相手にという話が出た。震えるほどうれしいオッファーだったけれど、大瀧さんサイドからは「インタビューは受けない」と断られた。そこでロングインタビューの代わりに「大瀧詠一の系譜学」という長文の大瀧詠一論を寄稿させてもらった。そこで僕はラジオ放送で大瀧さんが語ったこと(誰も文字起こししていないので、放送と同時に消えたはずの音声)を引用して、大瀧さんの音楽理論を祖述してみた。

 CDでも、書籍でもなく、ほとんどラジオで聴いた大瀧さんの言葉だけを素材にして書き上げた僕のスタイルがたぶん大瀧さんの琴線のどこかに触れたのだろう、その次に同じ担当編集者が『文藝』で大瀧詠一特集を企画してもう一度ロングインタビューの相手に僕を推してくれたときには、大瀧さんからOKが出た。それが2005年の8月のことである。僕以上の熱狂的なナイアガラーである石川茂樹君とふたりで山の上ホテルに大瀧さんをお迎えして、8時間半にわたってお話しをうかがった。石川君にとっても僕にとっても、生涯でもっとも幸福な8時間半だった。

 それがきっかけになって大瀧さんに定期的にお会いするようになった。友人の平川克美君がやっているラジオ番組の収録に一年に一度お招きして、石川君と三人で大瀧さんを囲んで、思う存分おしゃべりをするという番組企画を大瀧さんが快諾してくださったのである。それが6年続いた。6年目の2012年暮れには大瀧さんの福生のスタジオを訪問して、そこで収録した。

 数々の名作を生み出した大瀧さんのスタジオはナイアガラーにとっては「聖地」である。そこで大瀧さんの恐るべきコレクションを前にして(当然、そうなると思っていたけれど)全員が絶句した。「絶句する」以外にリアクションのしようがない「天文学的」なコレクションだった。平川君が「大瀧さん、これだけ情報を集めて、どうするつもりですか」と修辞的な問いを発したのに、大瀧さんは「CIAに負けられないから」と笑って答えた。あれはなかば本気だったのだろうと思う。いくつかの分野については、政府情報機関を超えるくらいに「世界で一番詳しい」人間であろうとする気持ちが大瀧さんにはあったし、事実そうだった。

 去年の暮れに7回目の収録のための日程調整のメールを平川君が送ったときに大瀧さんから「去年が最後のつもりだった。だからスタジオにお出で頂いたのである」という返事が来た。「始まりのあるものは、いつか終わる」という言葉が書き記してあったそうである。いかにも大瀧さんらしいと思った。僕は大瀧さんに定期的に会えなくなったせいでがっかりするより、なんだかうれしくなってしまった。先ほども書いたとおり、大瀧さんは「あらゆるものを見ている」わけで、僕にしてみたら、そばにいてもいなくても、いるのである。

 僕が大瀧さんから生涯に受け取ったメールは数えてみたらちょうど20通だった。わずか20通。それでも、大瀧さんはいつでもすぐ横にいるような気がしていた。

 大瀧さんは僕がツイッターやブログに書いたものをずっと読んでくれていて、「日本でこんなことを知っているのは大瀧さんくらいしかいないだろうな・・・」と思うトピックに言及すると、ほんとうに数分以内にメールが来た。だから、ナイアガラーにとっての最大の名誉は、「日本でこんなことを知っているのは大瀧さんくらいしかいない」ことを自力で発見して、大瀧さんからのメール認知を得ることである。僕は二度その栄誉に浴した。

 ひとつは2年前。ニール・ヤングの"Till the morning comes" は僕の耳にはどう聴いても「死んだはずだよお富さん」という春日八郎の『お富さん』のフレーズそのままに聞こえる。果たしてニール・ヤングが春日八郎を聴いた可能性ってあるのだろうかとそのときブログに書いた(そう思ったのは1970年のことなのだが、言葉にするまで33年逡巡の時があったのである)。そのときは大瀧さんからすぐにメールが来て、アーサー・ライマン・バンドの演奏するOtomi sanの映像がYoutube上にあると教えてくれた。見ると、たしかに『お富さん』を日本語まじりで長々と演奏していた。だが、大瀧さんはどうして半世紀も前のアメリカの売れないバンドのテレビ演奏画像の存在を知っていたのか。もしかすると、大瀧さんもあるとき「ニール・ヤングのあれは、もしかすると・・・」と思って、1945年カナダ生まれのロック歌手が9歳のときに日本で大ヒットした『お富さん』をどこかで聴いていた可能性について網羅的な調査を行ったのではないだろうか。大瀧さんが「網羅的」に調べるということは、その語の辞書的な意味において「網羅的」ということである。取りこぼしなしに、ということである。そして、このフレーズをニール・ヤングが知るためには、テレビでアーサー・ライマン・バンドの演奏を見る以外には可能性がないという結論に達したのである(その結論に達するまでにどれほどの時間を要したか、僕には想像もつかない)。でも、それだからこそ、僕が「もしかして・・・」と書いたときに文字通り電光石火の速さで「ニール・ヤングがこのテレビ放送を見ていた、という証言が得られれば、内田説にも信憑性が・・・。(笑)」というメールを送ってくれたのだと思う。大瀧さんがここで「内田説」と書いたのは、大瀧さんが一度仮説を立てて、その後放棄した膨大な「大瀧説」のひとつに僕が触れたことへの「ごほうび」だったのだと思う。

 もうひとつは、仕事をしながらBGMにデイブ・クラーク・ファイブを流していたら、『ワイルド・ウィークエンド』のイントロ部分に聞き覚えがあった。顔を上げて、もう一度聴いてみたら、大瀧さんが作曲した『うなずきマーチ』の冒頭のビートきよしの音程のいささか甘い独唱部分とそっくりなフレーズだった。二つの音源をYoutube で探してきてツイッターに貼り付けたら、大瀧さんからすぐにメールが来た。「この二つを結びつけられたのは内田さんが地球上で最初の人です。」

 つまり、大瀧さんは『ワイルド・ウィークエンド』を自作の「歌枕」にカウントしていなかったのである。それを知らされて、ちょっと残念ですと書いたら、すぐにまた返事が来た。

"残念"ではなく、本当に見事な"新解釈"なのですよ!あの曲の元ネタはThe Rivingtonsというグループの『papa-wom-mow-mow』です。これはポップス系のナイアガラーは周知のネタですが、作る際にメロディーが全く同じではマズイので"変奏"したわけですね。それがまさかDC5"ワイルド・ウイークイエンド"と同じになっているとは!今日の今日まで気がつきませんでした。確かに同じですね!こりゃ大笑い!DC5は何万回と聞いているのでどこかにそれがあったのかもしれません。しかしそれにしても"ビートきよし""マイク・スミス"とは!!!これは内田さん以外に提唱できない"超解釈"です。」

 大瀧さんからもらったメールの中でこれほどうれしかったものはない。そのとき、一瞬だけ、大瀧さんと同じ「歌枕」に立って、同じ方向を見ているような気がした。

 ご冥福をお祈りします。

 

(2014年『東京人』)