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内田樹さんの「病と癒しの物語『鬼滅の刃』の構造分析(後編)」 ☆ あさもりのりひこ No.1133

この世には100%の健常者も100%の病者もいない。一人一人が何らかの欠損や過剰を抱えており、それぞれの仕方で傷つき、それぞれの「スティグマ」を刻印されている。

 

 

2022年2月23日の内田樹さんの論考「病と癒しの物語『鬼滅の刃』の構造分析(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

『鬼滅の刃』にはある「構造」が繰り返し反復される。それは「ハイブリッド」あるいは「どっちつかず」ということである。最初から最後までこのマンガにはつねにある種の「混淆」のイメージが取り憑いている。

 舞台は「大正」という設定である。大正時代がマンガの舞台になるということはあまりない(私が知っている例は『はいからさんが通る』だけである)。どうして作者がこの時代を選んだのか、よくわからない。背景が大正時代でなければならないような物語上の必然性はないからだ。あるとすれば、それが前近代と近代の入り混じった「汽水域」のような時代だったということである。まだ炭焼きが職業として成立している時代であり、ほとんど人は着物を着ており、主要産業は農業で、汽車や自動車が珍しい時代である(炭治郎の仲間の一人である嘴平伊之助は山育ちで汽車を見たことがないので、それを生きものだと誤認する)。そういう風景の中で、剣士たちは筒袖に野袴に羽織に帯刀という戊辰戦争当時の戦闘服を着用している。前近代と近代がこのマンガでは混淆している。作者はたぶん「そういうの」が好きなのだと思う。

 

 剣士と鬼の間もそうだ。ここにも「混淆」が際立つ。一方にイノセントな「善玉」がいて、他方に邪悪な「悪玉」がいるというようなデジタルな区分線が実はない。物語の中心にいて、炭治郎と仲間たちが全力を挙げて守ろうとする禰豆子は「半分鬼」である。「騎士」が「無垢のお姫さま」の純潔を守るというのは騎士物語の定型だが、『鬼滅の刃』で剣士たちが全力で守る「お姫さま」はすでに穢れた血を持つ病者なのである。

 禰豆子を癒す方法を模索する一方で無敵の鬼たちを体内から腐らせる劇毒を調合する珠世・愈史郎の「医療人ペア」は剣士たちの力強い味方だが、この二人は「元・鬼」である。だから、最後まで鬼的属性をそぎ落とすことができないまま、「改悛した鬼」として鬼狩りに関わる。

 炭治郎と同期の剣士である不死川玄弥は「鬼を食って」、鬼の能力を取り込むことで戦闘力を高めるという自滅的な大技を使う。

 クライマックスでは、最後までイノセンスと純粋性の権化として鬼狩りの主力であった炭次郎自身が彼の倒したラスボス鬼舞辻無惨の呪いによって鬼化して、鬼の世界と人間の世界の「綱引き」によってかろうじて人間の世界に戻ってくる。

 ご覧の通り、剣士たちの中に最初から最後まで「属性がシンプル」というものは一人もいない。全員が何らかのトラウマ的経験とそれから派生する深い屈託を抱えている。トラウマ的経験というのは「あまりに痛苦であるのでそれについて語ることができない経験」のことである。そして、その経験を核として彼らの個性はかたちづくられている。おのれの人間性の核をなす部分について語れないという本質的な弱さを剣士たちは抱え込んでいる。そして、その屈託から剣士たちの個性的な戦闘力は生まれてくる。

 同じことは鬼の側にも起きる。彼らも(ラスボスの鬼舞辻を除くと)諸般の事情によって不本意ながら、あるいは自らの意志で鬼になった「元人間」たちである。彼らが鬼になったのは、人間であったときに「もう、いっそ鬼になってもいい」と思うくらいにつらい経験をしたからである。そして、彼らは剣士によって殺される時に、息を引き取る間際になってかつて自分を鬼に追いやったトラウマ的経験を思い出す。そして、それを剣士に向かって語ることで彼らの症状は劇的に寛解する(そしてこの世から消滅する)。これはそのまま精神分析のメタファーである。

 

 もう文字数がないので、結論を急ごう。『鬼滅の刃』は病と癒しをめぐる物語である(だからこそ偶然にもパンデミックの時期にジャストフィットしてしまったのである)。剣士と鬼たちは全員がある意味での「病者」である。そして、他の登場人物たちはほとんど全員が「医療者」あるいは「回復の支援者」である。だから、極言すれば物語は「戦場」と「病院」だけで展開するのである。戦いで傷つき、限界まで疲れ切った剣士たちが、お互いに心を通わせ、認め合い、許し合うのは、病床でベッドを並べている「治療中」の時間においてなのである。

 

このマンガの卓越した点は「健常」と「疾病」をデジタルな二項対立としてはとらえず、その「あわい」こそが人間の生きる場であるという透徹した見識にあったと私は思う。この世には100%の健常者も100%の病者もいない。一人一人が何らかの欠損や過剰を抱えており、それぞれの仕方で傷つき、それぞれの「スティグマ」を刻印されている。『鬼滅の刃』の手柄はその事実をありのままに受け入れ、病者たちに寄り添い、時には癒し、時には「成仏」させる炭治郎という豊かな包容力を持つ主人公の造形に成功したことにあるのだと私は思う。