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眼に見えないもの、耳に聞こえないもの、にもかかわらずリアルに「切迫」してくるものがあるという実感の上に信仰は基礎づけられている。
2022年3月25日の内田樹さんの論考「現代における信仰と修業」(前編)をご紹介する。
どおぞ。
韓国の朴東燮先生が「内田樹研究」のために熱心に資料を集めている。読みたいものがあるのだけれど、韓国の図書館では見つからないということだったので筐底を漁ってみたら出てきた。2013年の4月に書いたものである。読み返してみたら、なかなか興味深い内容であった。朴先生に送るついでにブログにも上げておくことにした。
23年間、神戸女学院大学というミッションスクールで教師をしていた。それまでキリスト教との接触はほとんどなかったが、在職中はチャプレンと語らい、礼拝に出て、ときには奨励で聖書を論じた。ユダヤ教哲学を専門にしていたので、ノン・クリスチャンではあったが、『聖書』は学生時代から繰り返し読んでいた。
私が研究していたのはエマニュエル・レヴィナスというフランスのユダヤ人哲学者である。リトアニアに生まれ、フランスとドイツで哲学を学び、ホロコーストを生き延び、タルムード解釈学を相伝され、その学知によって崩壊寸前だったフランスのユダヤ人共同体の精神的導師となった人物である。
あるきっかけでこの哲学者を「師」と仰ぐことに決め、この人のものの考え方を理解しようとつとめているうちに、私は一神教信仰の基本的な考え方を学んだ。
その一方で私は40年ほど前から合気道という武道を修業してきた。東京にいたころに多田宏先生に就いて学び、神戸では、大学に合気道部を創部し、退職後の今は1階が道場、2階が自宅という建物を建てて、稽古に明け暮れている。
仏文の院生・助手時代は、昼間はレヴィナスを翻訳し、夕方からは合気道の稽古に通うという判で捺したようなルーティンを10年以上続けていた。このときはユダヤ教哲学と武道の間にどういう内的なつながりがあるのかよくわからなかった。先生たちからは「そんな時間があったら研究をしろ」とよく叱られた。でも、止められなかった。自分が知的に探求していることと、身体が感覚的に探求していることが「同じもの」だという直感がしたからである。ただ、どういうふうに「同じ」であるのかはそのときにはまだ言葉にできなかった。
無宗教の公立校からミッションスクールに移ってきて、ここは武道家として居心地がよい場だと感じた。それはウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した煉瓦造りの重厚な建物で暮らし、朝夕パイプオルガンや賛美歌の音楽に身をひたしていたことと深い関係があったと思う。
私の師である多田先生は久しくイタリアで合気道を指導されてきたが、つねづね「合気道を教えるのはイタリアの方がずっとやさしい。彼らは信仰を持っているから、眼に見えないもの、耳に聞こえないものがこの世にはあることを素直に信じる。日本人の方がその点ではずっと頑なだ」と言われていた。その言葉がずっと記憶に残っていた。
武道修業も初歩のうちはただ手足を運動的に動かしているだけである。それも愉しいのだが、やがて身体感覚が敏感になってくると、数値的・外形的には考量不能のシグナルがしだいに感知できるようになる。「気配」とか「気の起こり」がわかってくる。さらに修練が進むと「機」というものがわかってくる。
「機」というのは「石火の機」とか「啐啄の機」という言葉から知られるように、入力と出力が同機することをいう。右手と左手が拍手するときに、「右手が左手を探す」とか「左手が右手を受け止める」というようなことは起こらない。右手と左手は互いにためらいなくまっすぐに出会いの点に向かって進む。武道的な斬り込みと斬り返しでも同じことが起こる。これは反応速度が速いとか、動体視力がよいとか、「先手を取る」とかいうこととは違うレベルの話である。外界と内面、対象と主体という二元論的なもののとらえかたそのものが失効する境位があるという話である。
私たちはふだん「ここまでは現実で、ここから先(たとえば夢や幻覚)は非現実」というデジタルな境界線を守って生きている。「自分の身体は制御可能だが、他者の身体や心は遠隔制御することはできない」と信じている。だが、武道では、練度があるレベルに達するとそういう因習的な内外や主客の境目がしだいにあいまいになってくる。自他のボーダーを越える「出入り」が可能になってくる。
この「境界線があいまいになる感覚」と信仰には深い関係があると私は思う。多田先生はおそらくそのことを指摘されたのだと思う。眼に見えないもの、耳に聞こえないもの、にもかかわらずリアルに「切迫」してくるものがあるという実感の上に信仰は基礎づけられている。人間の五感に感知できるものだけが存在するもののすべてで、感知できないものは存在しないというような断定の上に宗教は絶対に成立しない。あらゆる信仰の基礎には、この「感知できないものの切迫」という経験がある。
初詣のときに、あまり信仰心があるとも見えない人々が一心に手を合わせている光景にぶつかる。おそらく心の中で「家内安全」とか「学業成就」とかいう実利的な願いをしているのだろう。だが、見ていると、そのような祈りの言葉を心の中で何度か繰り返すのに要する以上の時間彼らは黙想している。何をしているのか。
彼らは何かが触れてくるのを待っているのだと私は思う。息をひそめて、耳を澄まして、皮膚感覚を敏感にして、「自分宛てのメッセージ」がどこかから届くのではないかと待っている。そういう参拝をこれまで何百回何千回も繰り返してきて、過去に一度だって「メッセージ」が到来したことなどなかったにもかかわらず、人は祈るときに「耳を澄まして待つ」という構えを取らずにはいられない。「何かが到来するのを待つ」という備え抜きに人は「祈る」ことができない。