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信仰を基礎づけるのは市民的成熟である
2022年3月25日の内田樹さんの論考「現代における信仰と修業」(中編)をご紹介する。
どおぞ。
私が研究したレヴィナスという人は先の大戦で応召したのち、捕虜となり、捕虜収容所に終戦まで収監された。戦争が終わってみると、リトアニアにいた親族のほとんどはアウシュヴィッツで殺されていた。帰化した第二の祖国フランスのユダヤ人共同体は崩壊寸前だった。
若いユダヤ人たちは父祖伝来の信仰に背を向けた。彼らはこう言った。もし神が存在するというのがほんとうなら、なぜ神は彼が選んだ民が600万人も殺されるのを看過したのか。なぜいかなる奇跡的な介入もされなかったのか。信者を見捨てた神をなぜ私たちはまだ信じ続けなければならないのか、と。
そういう人たちに向かってレヴィナスはこう語った。では訊くが、あなたがたはこれまでどんな神を信じてきたのか? 善行をするものに報償を与え、悪行をするものには罰を下す「勧善懲悪の神」をか? だとしたら、あなたがたが信じていたのは「幼児の神」である。
なるほど、勧善懲悪の神が完全に支配している世界では、善行はただちに顕彰され、悪事はただちに処罰されるだろう。だが、神があらゆる人間的事象に奇跡的に介入するそのような世界では、人間にはもう果たすべき何の仕事もなくなってしまう。たとえ目の前でどんな悪事が行われていても、私たちは手をつかねて神の介入を待っているだけでいい。神がすべてを代行してくれるのだから、私たちは不正に苦しんでいる人がいても疚しさを感じることがなく、弱者を支援する義務も免ぜられる。それらはすべては神の仕事だからだ。あなたがたはそのように人間を永遠の幼児のままにとどめおくような神を求め、信じていたのか?
ホロコーストは人間が人間に対して犯した罪である。人間が人間に対して犯した罪の償いや癒やしは神がなすべき仕事ではない。神がその名にふさわしいものなら、必ずや「神の支援なしに地上に正義と慈愛の世界を打ち立てることのできる人間」を創造されたはずである。自力で世界を人間的なものに変えることができるだけ高い知性と徳性を備えた人間を創造されたはずである。
「唯一なる神に至る道程には神なき宿駅がある」(『困難な自由』)この「神なき宿駅」を歩むものの孤独と決断が信仰の主体性を基礎づける。この自立した信仰者をレヴィナスは「主体」あるいは「成人」と名づけたのである。
「秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界における犠牲者の位置を受難と呼ぶ。この受難が、いかなるかたちであれ、救い主として顕現することを拒み、地上的不正の責任を一身に引き受けることのできる人間の完全なる成熟をこそ要求する神を開示するのである。」(同書)
レヴィナスはこの峻厳なロジックによって、戦後いったん崩れかけたフランスユダヤ人共同体を再建した。二十代の私はこのレヴィナスの複雑な弁神論につよく惹きつけられた。信仰を基礎づけるのは市民的成熟であるという言葉は私がそれまでどの宗教者からも聞いたことのない言葉だったからである。
その一方で私は武道の修業を通じて「濃密な実在感をもつ非現実」が切迫することを身体実感として繰り返し経験した。私はこの感覚の統御のしかたを師に就いて体系的に学んだ。
これを「神秘主義」にカテゴライズする人がいるかもしれないが、非現実のものをリアルに感知するという経験は別に神秘的なものではない。ある周波数の空気の波動は人間の耳には聞こえないが、犬には聞こえる。たまたま犬に聞き取れる波動を感知した人間に向かって「あなたは神秘体験をした」と言うのも、「人間に聞き取れるはずがない」と決めつけるのも、どちらあまり賢い態度とは言えない。「そういうことって、あるかも知れない」とひとまず受け容れ、どういう条件が整うと「そういうこと」が起こるのか、それを丹念に詰めてゆくのが科学的な態度だと私は思っている。実際に、世に「神秘的」と呼ばれる経験の多くは「精度の低い計測機器では感知できなかった量的変化」である。計測機器の精度が上がれば誰にでも観察できる。
だから、宗教の儀礼や武道の技法はたいていの場合「身体という計測機器の精度を上げる」というたいへんにプラクティカルな要請に応えて組織化されているのである。
武道だけでなく、私が稽古している能楽もそうである。
長く稽古していると、能舞台と空間は、そこで演じられ奏される動きや響きに応じて、微妙にねじれたり、たわんだり、厚みを増したり、減じたり、熱を持ったり、冷え込んだり、粘度が上がったり、下がったりするということが皮膚感覚でわかるようになる。囃子の音楽と謡の詞章の意味と型の表象が舞台上のシテにくっきりとした動線を指示するということがわかるようになる。その指示に従えば、唯一無二の動線上で「それ以外にありえない」ような動きをするようになる。別にこのときシテは神秘体験をしているわけではない。そういうことが「わかる」ようになるための体系的な訓練をしてきたことの結果を享受しているに過ぎない。
残念ながら、私たちの生きている現代社会では、空間を行き交っている無数のシグナルを感知し、それに応じた最適行動をとる訓練の必要性を感じている人はきわめて少ない。それでも、心身の計測精度を上げる方法は無数にあるから、それと気づかずにうちにシグナル感受性が上がっているということは起こりうるだろう。
さきにふれたヴォーリズは宣教師でもあったから、かれが設計した建物が「信仰への導き」の装置となっているのは当然のことである。建物を実際にご覧になるとわかるけれど、ヴォーリズの建物には無数の暗がりがある。思いがけないところに隠し扉があり、隠し階段があり、隠し部屋がある。一つとして同じ間取りの部屋がない。好奇心にかられてドアノブを回して、見知らぬ空間に踏み込んだ学生は、その探求の行程の最後で必ず「思いがけないところに通じる扉」か「思いがけない景観に向かって開く窓」か、どちらかを見出す。その点でヴォーリズはほんとうに徹底している。好奇心を持って、自分の決断で、扉を押し開き、階段を昇っていったものは「思いがけないところに出る扉」か「そこ以外のどこからも見ることができない景色」という報償を必ず与えられる。信仰への誘いとして、また学びの比喩として、これほど教化的な建築物はあるまい。
ヴォーリズの建築物は「計測装置の精度を上げる」ことへのインセンティブとしてきわめてすぐれたものであったと私は思う。私自身その建物の中で長い時間を過ごしたが、それが武道家としての感覚形成と無関係であったとは思われない。