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「危機いうのはね、あれは二〇世紀に入ってから、はやりだしたんよ」
2022年3月28日の内田樹さんの論考「危機の危機(前編)」をご紹介する。
どおぞ。
『新潮45』という雑誌が以前存在した。ある時期から極右的な論調に変わって、質の悪い記事を掲載するようになってそのうち廃刊になった。まだまともな雑誌だった頃にはよく長いものを書かせてくれた。これもその中の一つ。2012年の2月に書いたので、もう10年前になる。朴東燮先生が「読みたい」と言うのでHDの筐底を探して見つけ出した。10年経ってもリーダブルなような気がしたので、再録する。
先日、哲学者の鷲田清一先生と「3・11後の日本の危機的状況」について対談する機会がありました。僕がホスト役で、鷲田先生から話を聞き出すという趣向の会でしたので、冒頭で僕が「われわれは今、ポスト・グローバリズムの世界という、前代未聞の歴史的状況に投じられています。さて、これから、いったいどうやって、この危機を生き抜くべきなのでしょうか?」というようなよくある定型的な問題提起を不用意に口にしてしまいました。すると、鷲田先生に「内田さん、『危機』という言葉が、いつごろから流行り出したか知ってはる?」と反問され、不意を突かれて一瞬絶句してしまいました。
「危機いうのはね、あれは二〇世紀に入ってから、はやりだしたんよ」と言われて、「おおっ」と思いました。
たしかに二人で数えてみると、ポール・ヴァレリーの『精神の危機』、ポール・アザールの『ヨーロッパ精神の危機』、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』とか、「危機」という言葉がたいへんによく使われ出したのはその頃からのことでした。ハイデッガーは「危機の時代の思索家」と呼ばれましたし、オルテガの『大衆の反逆』も危機論です。「不安」や「孤独」や「絶望」や「痛み」が哲学の常套句になったのも思えばその頃からでした。とりあえず、一九一〇年代に「危機」という言葉が哲学の世界では流行語になった。爾来百年、われわれは「危機だ、危機だ」と言い続けている。
鷲田先生の哲学史講義によりますと、それまでは、哲学の優先的な主題は「幸福論」だったそうです。アリストテレスからスピノザ、ショーペンハウエルから、ヒルティー、アランに至るまで、哲学者たちは「幸福とは何か」、「人間は何のために生きているのか」、「どうやって幸福を追求するのか」を主題的に論じていた。たしかに言われればその通りです。ところが、このとき幸福論が哲学の主題であることを止めて、代わりに危機論が前景に迫り上がってきた。そのときに、「どうして危機論がその時期に流行りだしたのか」その歴史的理由を二人であれこれ考えました。
テクノロジーの急速な進歩がその理由であることはたしかです。この時期に劇的な進化を遂げたのは何よりもまず「人間を破壊するためのテクノロジー」でした。第一次世界大戦(1914-1918年)では、飛行機、戦車、火炎放射器、毒ガスといった大量殺戮兵器が登場しました。兵士たちの方は中世の戦争とそれほど変わらない布きれの軍装をまとっただけで戦場にかり出されて、すさまじい破壊力をもつ戦争機械によって殺戮されました。
ヨーロッパでの大規模戦闘としては、その40年前に普仏戦争(1870-71年)があります。そのときの戦死者数が25万人。ところが、第一次世界大戦の戦死者は突然2600万人に跳ね上がります。いきなり100倍です。シャスポー銃しか経験したことのなかった市民たちがいきなり高性能殺戮機械に投じられ、ミンチのようにすり潰された。第一次世界大戦では、有史以来のすべての戦争の戦死者をはるかに超える数が局地戦ごとに累積していった。激戦地では屍体が重なり会って一望しても地表が見えなかったそうです。
この時期はまだ整形外科が発達していませんので、戦後、ヨーロッパの街々に身体破壊を受けた復員兵たちが往還します。手がない、足がない、顔が半分ない、そういう人たちの姿を日常的に見せつけられた。このときの市民たちの衝撃を想像することは困難です。人間が「人間の作り出したもの」によって破壊されている。その恐怖の身体実感が「危機」の背景にある。これはかなり納得のゆく説明ではないかと思います。
もう一つの解釈は、僕の暴走的思弁ですから、あまり信憑性はないので、読み流してもらっていいのですけれど、これはヨーロッパにおけるある階層の消滅と関連するのではないかという仮説です。
ヨーロッパで一九一〇年代に起きた最大の歴史的事件というと、第一次世界大戦とロシア革命ですけれど、実は目に見えないけれど、もっと大きな事件があった。それは、貨幣価値の暴落です。
ヨーロッパの通貨というのは、一七世紀から二〇世紀の初めまで二百年間長期にわたって安定していました。僕たちはインフレとデフレの周期的交代の時代しか知りませんので、貨幣価値が安定していると何が起きるかということをうまく想像できません。
貨幣価値が長期にわたって安定していると、それ以外の時代には存在しえない階層が棲息可能になります。それは「高等遊民」という種族です。彼らが生き延びる条件が整うのです。
ヨーロッパのように、何世紀も前に建てられた石造りの家に住んでいて、先祖伝来の家具什器を使って暮らせる社会では、親や祖父の代に購入したロシア国債とかフランス国債の金利で子孫は遊んで暮らすことができました。
「年金生活者」のことをフランス語で「ランティエ(rentier)」と言います。このランティエたちがかなりの数存在していた。正確な統計的数値は知りませんが、贅沢さえしなければ(贅沢には「家族を持つこと」も含まれます)、生涯徒食できた人々が集団的に存在していた。生活するために人に命令されたり、組織に入る必要がない「自由人」が何十万単位でヨーロッパ各国に散在していたのです。貴族もある種のランティエですけれども、もっと収入が少なくて、生活水準が低くても、「生きるために、誰にも頭を下げる必要ない」市民たちが集合的に存在し得た。
19世紀に活躍した名探偵たちオーギュスト・デュパンやシャーロック・ホームズは典型的なランティエです。だから、アームチェアに座って、パイプをふかしながら、哲学をしたり、詩を書いたり、音楽を聴いたり、芝居を見たり、科学の実験をしたり、殺人事件の推理をしたりすることができた。彼ら自身が芸術運動の担い手であったり科学者であったりしたわけではなくても、同時代では最も感度のよいオーディエンス群をなしていた。そのことは「デュパンと僕」や「ホームズとワトソン」の浮き世離れした会話を徴する限り間違いありません。だから、何か新しい文学上の運動が起こる、ある種の自然科学の発見があった、新しい政治運動が起きた、というようなときには、ランティエたちがもっとも早く反応した。なにしろ暇ですし、自分たちの生活そのものはまったく変化がないわけですから、そういう新奇な話には飛びつく。「来週から犬ぞり隊が北極に出発するんだけど、隊員がひとり足りないんだよ」というような話を聞きつけて、「あっ、俺行く」とすぐに手を挙げられるのはランティエしかいません。勤め先がなく、扶養家族がなく、小金を持っている。そういう人たちが19世紀末まで、ヨーロッパにおける知のフロンティアを担ってきた。この「暇人」階層こそ、ヨーロッパ近代における芸術的な、あるいは学術的なイノベーションの温床だった。僕はそう思っているんです。僕が思っているだけで、別に歴史学的な根拠があるわけじゃないんですけれど、何となくそう思っています。