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工場で工業製品を製造するような仕方で教育過程全体が制度設計されるようになった
2022年3月30日の内田樹さんの論考「教育と産業のメタファー」(前編)をご紹介する。
どおぞ。
福島みずほさんとオンラインで対談した時、「教育を語る語彙は、その時代の基幹産業で用いられる語彙が流用される」という話をした。農業が基幹産業だった時代には、教育は農業の用語で語られ、工業の時代には工業の用語で語られる。そして、最近になってついに教育が金融の用語で語られるようになった。むろん無意識にやっていることだけれども、教育の制度設計をしている人間たちは、自分たちがどれくらいに限定された語彙と限定された思考を強いられているのか気づくべきだと思う。
その配信を見ていた朴東燮先生から、この論件についてまとめて書いたものを読みたいというリクエストがあったので、いま校正中の想田和弘監督との対談本の当該箇所を抜き出して送った。それをここに採録しておく。
大学に初めて導入されたときから、シラバスは日本の教育に合わないと思いました。欧米の人にとっては有効かも知れません。でも、日本の教育は伝統的な「なんとか道」から派生してきたものですから、自分が受ける教育プロセスの全貌があらかじめ可視化されるということはむしろ忌避されてきました。
「道」では先達(メンター)が前を歩いているので、それについてゆくだけで、目的地がどこであるかもわからないし、あとどれくらい歩けば目的地に着けるのかもわからない。でも、そういうやり方がきわめて効果的であるということを日本人は経験を通じて知っていました。その方が日本人の宗教性や身体観ともなじみがいいものなんだと思います。
せっかく日本固有の教育法があるんだったら、それを活用すればいいのに、なぜかそれを否定して、シラバスが導入された。
導入の時に、シラバスというのは「契約書」のようなものだと説明されました。「この教科を履修して、このような知識と技能を習得すると、こういう『よいこと』があります」ということを学生に履修に先立って約束するのだというんです。ですから、教師がシラバス通りに授業をしなかったとか、シラバス通りの「よいこと」が得られなかったという場合には「契約違反」になって教師が学生に謝罪したり、賠償したりしなければならないと言われました。
同時に、FD(ファカルティ・ディベロップメント)や「PDCAサイクル」や「学士号の質保証」とかいう「教育工学」的な用語が文科省が発令する文書の中に頻出するようになってきました。
工場で工業製品を製造するような仕方で教育過程全体が制度設計されるようになったのです。学生を工業製品に見立てるわけです。ですから、どういう素材を使って、どういう工程を経て、どういう製品が、いつまでの納期で、いくつ出来上がるか、その全工程が事前に開示されなければならないという話になった。
たしかに工業製品ならそれが当然だと思うんです。どういう原料を使って、どういう製法で、最終製品がどういう効用で、賞味期限はいつまでで...ということが開示されないような商品はマーケットが受けつけてくれませんから。でも、教育の場合、相手は生身の人間です。缶詰を作るようなわけにはゆきません。
危険だと思ったのは、学生たちに授業の最終目標をあらかじめ知らせてしまうと、あとはその工程をいかに楽に通過するかということを考えるようになることです。学習成果を「商品」、学習努力を「貨幣」だとみなすと、最少の「貨幣」で「商品」を手に入れようとする。それが消費者の義務ですから。学習成果が予示された場合には、学生たちは「いかに勉強しないで単位を取るか」ということに向けて最大限の努力をするようになる。
でも、それについては学生を責められないんです。彼らに向かって「生産性を上げろ」とか「費用対効果のよい生き方をしろ」とか「賢い消費者として行動しろ」と大人たちが言い続けてきたんですから。ですから、工学的なメタファーで教育を語るようになってから後、日本の子どもたちの学力が劇的に低下したのは当然なんです。