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「なんだかよくわからない話」はなぜか奇妙なリアリティがあって、忘れることができない。
2022年5月29日の内田樹さんの論考「徒然草 訳者あとがき」をご紹介する。
どおぞ。
池澤夏樹さんが『日本文学全集』全30巻を個人編集したときに『徒然草』の現代語訳を頼まれた。酒井順子さんが『枕草子』、高橋源一郎さんが『方丈記』、僕が『徒然草』という不思議な編成の一巻だった。それが2016年に初版が出て、6年目に4刷りになった。うれしいことである。記念に初版に寄せた「訳者あとがき」を採録しておく。
現代語訳を書き始める前に、まず「現代語訳」というのがどういうものなのかを考えた。古文の参考書に付けられている訳文は「現代語訳」ではない。語義は正確だろうが、原文の「手触り」や書き手の「息づかい」が伝わってこない。今回の仕事で私に求められているのは、テクストの身体を際立たせることだと(勝手に)思い定めて、訳を始めた。
『徒然草』は兼好法師が老境を迎えた頃に書かれたものとされているが、若書きも交じっている(らしい)。ほんとうは厳密なテクスト・クリティックを踏まえて訳すべきなのだろうが、さいわい私は「テクストの身体」にだけ用があり、執筆年代の特定や内容の真偽は関心の埒外である。
「テクストの身体」というのはその人の指紋のようなもので、年齢や立場にかかわらず、変わることがない。現に、私自身すでに古希に近い年となったが、書くものには、過去の感懐や記憶の断片が無秩序に混ざり込む。話題に応じて、私はときに二十歳の若者として書き、ときに初老の男として書き、時には時間をフライングして、瀕死の床から書くことさえある。そんなふうに、私たちは書きながら時間の中を自由に往来する。そして、ある時、ある場所にいた過去の自分に想像的に嵌入して、そこから見える風景や肌に触れる空気をありありと回想することができる。それが書くことのもたらす愉悦の一つでもある。「徒然なるままに」筆を走らせた兼好法師がその愉悦を知らぬはずがない。彼は草庵の机の前に端座して、「失われた時を求めて」自在に時間と空間を行き来し、そこに感知された細部を事細かに記す。月の冷たさ、風の薫り、生い茂る緑の重み、苔むす道の寂しさ、遠く聞こえる笛の音、美酒の舌触り・・・などなどを兼好法師はひたすら愉悦的に記してゆく。
美的生活者の感懐というと、私たちはどうしても「美しいもの」についての記述を思い浮かべるが、『徒然草』が古典として七百年にわたって愛読された最大の理由は、彼の叙する「美しいもの」が審美的な視覚対象にとどまらないからである。彼は聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感すべてに「触れる」ものをいとおしげに、けれどもぎりぎりまで削り取った言葉で記述した。
例えば、季節の変わり目について記した第十九段。兼好法師は、春の興趣としてまず鳥の鳴き声から始める。そして、「日の光」「垣根の草」「霞」「芽吹き」「雨風」「青葉」「梅の香」と列挙し、そこから夏の風物詩としての「水鶏の叩く音」「夕顔」「蚊遣りの煙」を挙げ、続けて「雁の声」「萩の下葉」「早稲田の稲刈り」「野分」の秋へと筆を進める。流れるような筆致で彼は読者の五感を順に呼び覚ます。
すぐれた作家に共通する点だが、兼好法師も「嗅覚」と「触覚」を活性化する手際が卓越している。この二つの感覚は発生的には最も古い感覚であり、それだけ身体の深層・古層を揺り動かす。だから、美しい風景や美しい音色に対してなら私たちは審美的態度を持し、一定の距離を保つことができるのに、香りや手触りに対してはそのような観照的態度を保持することができない。それは直接私たちの身体に触れてしまうからだ。
その直接性は「痛み」にかかわるエピソードにおいて際立つ。「鼻の中が腫れて、呼吸もできなくなった」行雅僧都の病苦(四二段)。酒乱の男に腰を斬られた具覚坊の遭難(八七段)。「猫また」に襲われて小川に転げ落ちた連歌師の恐怖(八九段)。最も印象深いのは、座興で鼎を頭にかぶって耳も鼻ももげてしまった法師の話である(五三段)。そのときに法師が感じたであろう、あまりに愚かしい理由で落命する自分への自己嫌悪の深さと、鼎を抜くときに経験した激痛にうっかり想像的に共感してしまうと、私たちたちはしばらく夢見が悪い。
『徒然草』の魅力をかたちづくっているもう一つの要素は「なんだかよくわからない話」である。オチも教訓もない「奇妙な味わいの物語」を兼好法師はなぜか好んで蒐集した。稚児に頭を見せない「やすら殿」の話(九十段)。なにがどうすごいのか全然わからない牛追いの話(一一四段)。仁義を切ってから河原で差し違える(任侠映画みたいな)「ぼろぼろ」の話(一一五段)。落語『こんにゃく問答』の原型かとさえ思われる明恵上人の勘違いの話(一四四段)。個人的に一番好きなのは、芋頭ばかり食う盛親僧都をめぐるいくつかのエピソードのうち「しろうるり」の話(六十段)。
「なんだかよくわからない話」はなぜか奇妙なリアリティがあって、忘れることができない。そういう逸話が私は特に好きである。兼好法師が自慢顔で書く「彼がよく知っていること」の多くは私にはわからないし、別にわかりたくもないが、兼好法師が「よくわからないけれど、忘れられない」のでつい書いてしまったことは私にとってもやはり「よくわからないけれど、忘れられない話」なのである。そのとき私は700年の歳月を隔てて、兼好法師の隣にいる自分を感じる。