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国語教育というのは、子どもたち全員の中に標準装備されているこの「母語のアーカイブ」へのアクセスの仕方を教えることだ
2022年6月6日の内田樹さんの論考「『複雑化の教育論』をめぐるロングインタビュー その2」(前編)をご紹介する。
どおぞ。
――新刊『撤退論』では、人口減とどう付き合っていくかという話題がありました。人口減が進み、日本語話者が減っていく中で、国語教育はどうあるべきでしょうか。
人間は新しいアイディアを母語でしか創り出すことができません。知的なイノベーションは母語でしかできない。これが国語教育を考えるときの一番ベースに来るべき前提だと思います。
豊かな語彙を持つこと、鮮やかなレトリックを駆使できること、それは知的なイノベーションにとって不可欠です。そして、それは母語によってしかできません。僕たちは母語によってしか、複雑なニュアンスをもつ語を使い分けたり、複雑な論理階梯をもつ構文を語ったりすることはできません。
日本列島には数千年前から人が暮らしていました。そのすべての人たちが何らかの言葉を発してきたり、文字を書いたりしてきた。その全てが僕たちの「母語のアーカイブ」をかたちづくっています。僕たちが直接知っている語彙とか、使っている構文とか修辞とかは、そのごく一部に過ぎません。でも、「母語のアーカイブ」への入り口は僕たちが母語を習得してきた過程で、日本語話者全員の中に標準装備されています。国語教育というのは、子どもたち全員の中に標準装備されているこの「母語のアーカイブ」へのアクセスの仕方を教えることだと僕は思います。
日本列島で発したことのある発語や文字列のすべてがそこには集積しています。それはある種の天文学的サイズの図書館のようなものです。その図書館そのものではなく、その図書館への「入口」が僕たちの中には存在しています。国語教育というのは、この「図書館への入り口」をどうやって開き、どうやって「母語のアーカイブ」の深みに沈みこんでゆくか、それを教えることだと思うんです。
何年か前に、池澤夏樹さんの個人編の文学全集で『徒然草』の現代語をしたことがあります。『徒然草』なんて、予備校時代に受験勉強で読んだのが最後だし、古語辞典だってその当時のぼろぼろのものが手元には1冊あるだけでした。果たして現代語訳なんかできるだろうかと思いましたけれど、池澤さんがわざわざご指名くださったのは「できる」という評価を下した上でのことだろうから、まあ何とかなるだろうと思って、お引き受けしました。そして、毎日一段か二段ずつちょっとずつ訳して、二年かけて全訳をしました。毎日読んでいるとだんだん慣れてくるんです。吉田兼好とだんだん呼吸が合ってくる。どういう人柄だかだんだんわかってくる。そうすると、知らない言葉でも、古語辞典を引く前に「だいたいこんな意味じゃないかな」と予測できるようになる。
訳し終えてから「『徒然草』を訳して」という演題で二度講演をしました。京都の西本願寺で講演したとき、講演が終わった後にフロアとの質疑応答の時間がありました。そのときに手を挙げた方がいて、「私は高校の国語の教師ですが、博士論文は『徒然草』で書きました」とまず自己紹介した。わあ、何を言われるのだろうとどきどきしていたら、「内田さんの訳文はたいへんよい」と言ってくれました。「とくに係り結びの訳し分けが適切だった」と言われて、こちらが驚きました。実は係り結びというのは5つぐらい意味があって、文脈に応じて、訳し変えないといけないんだそうです。そんな文法規則があることを僕は知らなかった(笑)。でも、ちゃんと訳し分けていたらしい。
こういうことができるのは、やっぱり母語だからだなと思いました。吉田兼好は800年前の人です。でも、800年前までの「母語のアーカイブ」を僕は彼と共有している。そこから湧いて出てくる表現ですから、根は一緒なんです。だから、微妙なニュアンスの違いが分かったりもする。母語だとそういうことが起きる。
時々、新しい日本語が生まれることがあります。「新語(neologism)」と言いますが、新語について一番面白いのは、ある人がふっと思いついてその新しい語や表現を使い出したにもかかわらず、その微妙なニュアンスが日本語話者であれば誰でもわかるということです。そして、新語の伝播はものすごく速い。たぶん数週間で日本列島を北から南まで一気に広がっているんじゃないかと思います。
そして、新語の発明は母語話者にしかできません。僕が外国語で新しい言葉を思いついて、それを口にしてみても、たぶん誰も意味がわからない。「そんな言い方はしない」と言われておしまいです。でも、母語話者だとそれまで誰も使ったことがない新語についても、意味がわかる。ニュアンスが伝わる。
印象的な新語は半疑問形です。「複雑化の教育論?」みたいに、語尾をちょっと上げる独特の言い方です。これがある時期から流行りましたね。「よく知らないんだけれども」とか「俺はあまり評価してないので、一応判断保留しとくけれども」みたいなかなり複雑なニュアンスをもっている言い回しです。
初めて聞いたのが、90年代はじめの大学の教授会でした。一人の先生がある教育プログラムについての議論の中で、半疑問形を使ったんです。でも、その微妙に語尾を上げる言い方で「そういうプログラムを企画している人が学内にいるみたいだけれど、オレはその話聞いてないし、中身知らないし、評価もしてないし、どちらかというと反対だけど」というニュアンスをみごとに伝えていて、ちょっとびっくりしました。それからしばらくしてテレビを見ていたら、出演者たちが続々と半疑問形で話していました。「伝播するの速いなあ...」と感心しました。
「真逆」とか「ほぼほぼ」とか、どれもはじめて聴いたのに意味やニュアンスが理解できた。「真逆」は「正反対」よりちょっとだけ強い。「ほぼほぼ」は「ほぼ」よりもちょっとだけ確率的に低い。そういう意味の違いがわかる。いずれも日本中にあっという間に広がりました。
これが母語の生成力・伝播力というものなのだと思いました。新しい表現、新しいアイデアが出てきたとき、人々が瞬時に理解し、すぐに利用するようになる。