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宗主国からすれば、現地住民の創発性の「芽を摘む」ことが植民地支配においては必要だったわけですから、母語を痩せ細るに任せて、宗主国の言語を学ばせた。
2022年6月6日の内田樹さんの論考「『複雑化の教育論』をめぐるロングインタビュー その2」(後編)をご紹介する。
どおぞ。
数学者の岡潔は「数学は情緒だ」ということを言っていました。彼の言う「情緒」というのはたぶん数学的なアイデアとしてきちんとしたかたちをとる寸前の、輪郭の定かならぬ星雲状態の思念を導く力のことを指しているんだと思います。そのアモルファスな思念が形をとるには、身体的な没入が必要だ、と。星雲状態のアイデアが学的な概念にまとまるためには、「我を忘れて」没入する必要があり、そこには感情生活の豊かさの支援が要る。そういうことを岡潔は言っているんじゃないかと思います。
僕の経験ではそうです。自然科学であっても、社会科学であっても、あるいは文学であっても、ある新しいアイディアがかたちをとるときに、それはきわめて情緒的なものなんです。そして、その情緒的なもの、身体感覚的なものを言葉にするためには母語が要る。新語が湧き出てくるように、母語のアーカイブから湧き出してくる言葉でないと、この情緒をうまく掬い取ることができない。
日本はノーベル賞の受賞者がアジア諸国の中では突出して多い国です。これは考えてみたら不思議なことです。日本語は国際共通語ではありません。日本語話者は世界中足しても1億人ちょっとしかいません。でも、かつて欧米の植民地であったせいで母語を奪われて、宗主国の言語が公用語になっているところでは、自然科学分野でも他の分野でも、なかなかノーベル賞の受賞者が出ません。
例えば、フィリピンはかつてアメリカの植民地、インドはイギリスの植民地でしたから、どちらでも英語は公用語です。知識人は誰でも母語同様に英語が使えます。というか使えないと政治家にも官僚にも学者にもなれません。ですから、世界標準の研究にキャッチアップしたり、国際共通語で学会発表したり、論文を書いたりする上では、日本よりむしろアドバンテージがあるはずです。でも、なぜか、どちらでも自然科学分野でのノーベル賞の受賞者が少ない。フィリピンは受賞者ゼロ、インドは5人いますが、うち外国籍が4人です。国際共通語でない言語で研究できる日本では自然科学系だけで27人(うち外国籍が3人)。この差はどう説明したらよいのでしょうか。
たしかにタガログ語やヒンドゥー語はニュアンス豊かな生活言語ですけれども、政治や経済や科学について語るのには向いていません。だから、英語を使う。みんな英語が使えるので、母語を富裕化して、母語で語れる範囲を広げるということについて、強いインセンティブがなかった。そのことがこれらの国での知的なイノベーションを妨げているのではないかと僕は思います。
フィリピンの人がこう言っていました。「英語が母語同様に使えることはたいへんpracticalであるが、母語では英語と同じ内容が話せないことはtragic である」と。これはほんとうにそうだと思います。タガログ語では、政治や経済や学術について十分に語ることができない。そのための語彙がない。そのためのレトリックや複雑な構文が洗練されていない。「言語の植民地化」というのは、そういうものだと思います。宗主国からすれば、現地住民の創発性の「芽を摘む」ことが植民地支配においては必要だったわけですから、母語を痩せ細るに任せて、宗主国の言語を学ばせた。それは日本が朝鮮や台湾でやったのと同じことです。母語を使わせず、宗主国の言語を使わせることで、彼らの「母語のアーカイブ」へのアクセスを妨害した。でも、「母語のアーカイブ」に深く沈潜することが、新しいアイディアの発生にはどうしても必要なのです。
母語で博士論文が書ける国というのは、それほど多くはありません。「日本語で書いた論文でも博士号がとれる」ということを日本のガラパゴス化の原因だとして、論文は英語で書かせろというようなことを主張する人がいますけれど、そういう人たちは「母語に世界標準の学術用語の語彙が存在する」という事実がどれほど例外的なものかを忘れていると思います。母語で国際的な研究ができるというのは、日本の数少ない知的なアドバンテージなのです。
国語教育は、母語のアーカイブにアクセスする技術を教えるための教科です。その技術に習熟することで、僕たちは自分の中にふと浮かび上がった、不定形で星雲状態のアイディアの断片に、それにふさわしい表現を与えることができる。それが知的なイノベーションをドライブする。
母語のアーカイブに深く広くアクセスできる能力を高めてゆくこと、それが言語集団の知的生命にとって死活的に重要であるということに、いま国語教育を語っている人たちはほとんど自覚的ではないと思います。だから、「古文漢文なんか教えなくていいから、英会話を教えろ」というような、言語の植民地化を歓迎するような発言をする人間が出てくるのです。