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稲作が広がる以前の日本列島は鬱蒼たる森林におおわれており、そこが生命活動の中心であった。そこが「神の降りる場所、神と出会う場所」であるという感覚はおそらく今も生きている。
2022年6月15日の内田樹さんの論考「島薗進『教養としての神道 生きのびる神々』(東洋経済新報社)」(前編)をご紹介する。
どおぞ。
島薗先生の神道論の書評を頼まれた。東洋経済新報社のサイトに掲載されたものである。
本題に入る前に、私事について少し話すことにする。私がどういうふうに神道に接近してきた人間であるか、それを明らかにしておきたい。私は神道に対してニュートラルな立場の人間ではない。その偏りを明らかにしておかないといけないと思う。
私は合気道という武道を二十代から修行していて、大学でも学生に教え、門人も取っている。長く公立の体育館の武道場を借りて稽古をしていたのだが、何となくもの足りない。神棚がないからである。公立の施設は「政教分離」の建前があるから、すべての宗教的な要素が排除されている。でも、それでは困る。神棚でなくてもよい。禅語を記した扁額でもよい。十字架でもいい。道場である以上、超越的境位に通じる回路がないと場として成り立たない。
「道場」というのは、もとは仏道修行の場のことである。そして、武道というのも、原理的に言うと、人間の統御になじまない巨大なエネルギーをわが身のうちへ導入して、調えられた身体を経由してそれを発動する技術である。ある意味では「この世ならざるもの」と交渉する技術である。
だから、武道の道場に神仏に祈るための仕掛けがないと困るのである。公立施設で行われる武道の試合や講習会に参加すると、情けないことに「非常口」とか「火気厳禁」というような看板に向かって「神前の礼」をすることを求められる。「日の丸」を掲げてあって、それに礼をせよと言われることもある。申し訳ないが、国民国家の国旗は世俗的な政治的象徴ではあっても、超越的境位への回路ではない。それがずっと不満であった。だから、どうしても自分の道場が欲しかった。
10年ほど前にようやく願いが叶って、自分の道場を持つことができた。道場正面には合気道開祖植芝盛平先生の肖像写真、鴨居の上には神棚(地元の元住吉神社と出羽三山の祭神を勧請している)と二代道主植芝吉祥丸先生の揮毫された「合気」の扁額、入口の上には私の師である多田宏先生が書かれた「風雲自在」の扁額を掲げた。
ご存じの方もいると思うが、植芝盛平先生は大本の信者であり、出口王仁三郎によって武道家として立つことを薦められ、綾部の大本本部内に「植芝塾」を開いたことから武道家としてのキャリアを始められた人である。現在の合気道には大本の気配はもうほとんど残ってはいないが、植芝先生が採り入れられた古神道に由来する「天の鳥船」を行する人はまだ多く、私の道場でも行っている。
井上正鐵の創始した禊教の流れを汲む一九会という修行団体が東京にあるが、私はこの会員でもあり、定期的に行に参加している。一九日は山岡鐵舟の命日であり、この会の最初の指導者小倉鉄樹先生が鐵舟最後の弟子であったことによってこの名がある。ここは禊祓と坐禅を併せて行う典型的な神仏習合の宗教団体である。
夏になると芦屋に滝行に行く。私たちが行く滝は不動明王堂と二つの小さな社を持つ典型的な修験の行場である。ずいぶん長い間放棄されてきたこの滝を先年河野智聖先生が再発見して、行場として蘇生させた。夏場の滝行はまことに気分がよい。
以上が私と神道のつながりである。島薗先生は本書の終わりの方で「広い意味での神道的なものへの人気と、修験道や陰陽道への人気」(344頁)について言及されているが、私はまさにそのような「人気」の担い手の一人である。だから、私にとって神道は「教養」であるより先に(よく意味がわからないままに)「実践」してきたものである。私は本書の「読者」である以前に本書の分析「対象」なのである。当の分析「対象」が、分析を書評することが権利上許されるのかどうかよく分からないが、私自身は島薗先生の説明によって、「自分が何をしているのか」についてずいぶんと理解が深まった。その点についてまず感謝申し上げたい。
本書では神道の歴史がていねいに論じられる。私たちが本書からまず学ぶべきことは、神道の歴史が単線的に発達してきたものではなく、仏教や儒教とのかかわりの中でさまざまな変容を遂げつてきたということである。にもかかわらず、「神道の基層」(82頁)というべきものを保持しており、遷移を通じて、ある種の同一性を保っているということである。ただし、その同一性というのは、「これがそうです」と言って単離して取り出せるようなものではない。
しばしば神道は稲作文化に由来するものだと言われる。米、餅、酒のような米製品を「神饌」として他者を歓待するのは稲作文化圏固有の風習だからである。この主張をなす人たちは、伊勢神宮から村々の小さな社まで、その祭祀のかたちが「まったく変わらない」とする。「米にかかわる神饌を重視する点は、古代から現在まで一貫しているように思われる」(17頁)のであれば、神道は古代から現代まで「まったく変わらない」本質を維持しているということになる。皇室、伊勢神宮の祭祀こそが「神道の本来の姿」だという神道理解はこれを根拠にしている。
しかし、島薗先生は稲作以前にも原神道と呼ぶべきものが存在したのではないかという学説にも十分な説得力を認める。稲作が広がる以前の日本列島は鬱蒼たる森林におおわれており、そこが生命活動の中心であった。そこが「神の降りる場所、神と出会う場所」であるという感覚はおそらく今も生きている。「森の文化」のうちに日本的宗教性の源流の一つを見ようとするこの立場に島薗先生は親和的である。それは神道をいろいろな時代のいろいろな文化に起源を持つ、多起源的なものと想定しないと、その驚嘆すべき変異を説明することがむずかしいからである。