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「純粋化」がほとんどつねに暴力を伴う
2022年6月15日の内田樹さんの論考「島薗進『教養としての神道 生きのびる神々』(東洋経済新報社)」(後編)をご紹介する。
どおぞ。
何についても、ものごとには「本来の姿」があり、歴史的な遷移はその「本来の姿」が外来の異物の混入によって「汚染」されたせいで起きているので、外殻にへばりついた異物を削ぎ落して、原初の姿に立ち返ることで、ものごとは本来持っていた力と純粋さを回復することができる...という考え方は世界中に存在する。宗教だけではなく、政治体制や種族の文化についても同じような話型を偏愛する人たちは非常に多い。おそらくどんな国でも、国民の過半はこの「本来の姿」仮説に親和的であるだろう。現に、「神仏分離」もアーリア人種優位説もMake America great again も構造的にはよく似ている。むろん、この話型が支持されるのは、それだけ誘惑的な物語だからである。
けれども、私は基本的にこのタイプの社会理論に対してはつよく懐疑的である。それでは説明できないことが多すぎるからであり、かつ「純粋化」がほとんどつねに暴力を伴うからである。にもかかわらず、この粗雑で暴力的な理説が全世界で人々を惹きつけ続けてきたのは、単にそれが最も知的負荷が少ない説明だからである。島薗先生は私ほどあからさまな言い方はされないけれど、たぶん内心ではそう考えているのだと思う(違ったらごめんなさい)。
だから、簡単に「神道の本来の姿」というようなものを提示しない。話はそこから始まるのではないからだ。もし「神道の本来の姿」というようなものがこの後(島薗先生自身の研究を含めた)歴史学や考古学の成果として検出されたとしたら、その時、そこで「話は終わる」のかも知れない。だが、神道について「話が終わる」ということはたぶん起こらないと私は思う。というのは、古代の「原神道的な祭祀と信仰」から、現代の神社本庁や日本会議のような過政治化した神道や、私がいま修しているようなもっと生々しく「アニミズム的なもの」への好尚まですべてを含む「神道」はつねにオープンエンドの、生成過程のうちにあるからである。
だから、島薗先生が神道について「教養」という立場を採られたのだと思う。
「教養」として教えるということは、一つの学説を宣布することとは違う。単一の学説を述べるのであれば、自説に適合する事例だけを列挙し、自説に合致しない事例は重要性がないと退ける。けれども、それは「教養」という教科の趣旨になじまない。「教養」はむしろ神道の歴史的変異種を、その極端に逸脱したものを含めて、できるだけ多く網羅しようとする。
たしかにそういう網羅的な記述は「神道とはこういうものだ」という単一解を早く手に入れたいという読者には向いていない。その人たちは「早く神道問題を片付けて、次の問題に進みたい」のだろうが、残念ながらそうはゆかない。
島薗先生は堀一郎の次のような言葉を冒頭近くに引用している。これはたぶんそのまま島薗先生の神道理解だとみなしてよい。
「『神道』の名のもとに包括しうるような日本的潜在意識は、わたしの見るところでは、主として日本社会の構造と価値体系と、これらと表裏をなす神観念と儀礼を含む宗教構造から導かれたようである。」(19頁)
そうであるとしたら、その「日本的潜在意識」は21世紀の日本人をも深層において共軛しているはずだからである。
本書は神道についての深く広い知識を得るための書物であるけれども、それと同時にというよりそれ以上に、私たち自身を知るための本なのである。