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内田樹さんの「自分のヴォイスを見つけるためのエクササイズ」(その6) ☆ あさもりのりひこ No.1219

文章のうまい人は説明がうまい。

 

 

2022年8月6日の内田樹さんの論考「自分のヴォイスを見つけるためのエクササイズ」(その6)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

O川さま

 こんにちは。内田樹です。

 父親造形シリーズ、ありがとうございました。今回もまた「やたらにものわかりのいいお父さん」でしたね。

 たしかに、父親が謝辞を言う結婚披露宴というのは「仲良し家族」のはずですし、こういうところでは嘘でも「仲良し家族」を演ずるはずですから、定型的になるのは当然かもしれませんね。

 前に卒業生の披露宴に出たときに、新婦が「お父さんへの感謝の手紙」というのを読み上げました。

「お父さんは、むかしから私がお願いしたことはどんなことでも全部『いいよ』って言ってくれましたね。だから、私が彼を最初に家に連れて行ったときも、『お前の好きなようにしなさい』って、にっこり笑って受け容れてくれました。お父さん、ほんとうにありがとう!」

というのを聞いていたら、横にいた同期のゼミ生が肘で僕を突いて、「先生、あれ全部嘘よ。お父さん、結婚に大反対で、『絶対ダメだ!』っていって、すさまじい親子喧嘩してたんだから・・・」って教えてくれました。

 それを聞いて、むしろ僕は感心しちゃいました。

 なるほど、「家族の物語」というのはこうやってメンバーたちが作為的に作り込んでゆくのだな、って。

 そして、たしかにO川君が造形した、この父親の息子について語る言葉にはなんとなくリアリティがないんですよね。なんか妙に淡泊で。

 いや、それが悪いというんじゃないんです。

 そういうふうに「なんとなくリアリティがない」のが父親が家族について語るすべての言葉についてまわる特性なんですから。

 家族について「リアルな言葉」を語れる父親なんて、そういません。

「頑固オヤジ」も「ものわかりのいい父親」も「無関心な父親」も、それぞれ全部定型的なんです。定型句しか口にしない。個性的な言葉を語る父親もまれにいますけれど、それは父親としての責任とか権威とかを断念し放棄した父親です。

 父親であるというポジションを捨てた代償としてしか、「子どもについて自由に語る権利」を男は手に入れることができないんだと思います。ちょっと切ないですね。

 というところで、ここまでは虚構シリーズでしたけれど、たまには「ノンフィクション」課題を出します。

「僕の父」

です。

 これはたぶんO川君はうまく書けないと思います。それでいいんです。

 ある主題についてはうまく書けないという事実をみつめることもとてもたいせつな「書くレッスン」ですから。

 では、がんばってね。

 

O川さま

 こんにちは。内田樹です。

 課題提出ご苦労さまでした。今回はなかなかたいへんそうでしたね。お疲れさまでした。

 前回書いたように、「父親が語る言葉」はなぜかつねに定型的なものになります。なぜか知りませんけれど。

 でも、男の子が「父親について語る言葉」はそれほど定型的ではありません。

 たぶん、「こういうふうに語ればいい」という標準的なものを教えられたことがないからです。

 僕の知る限りでは、父親を客観的に、すっきりと語ることができた友人たちは、いずれも父親と疎遠でしたし、憎んでいる人さえいました。

 父親と仲が良かった、あるいは父親が好きだった息子たちはいずれも言葉少なでした。たぶん客観的にうまく記述できないんでしょう。

 僕は父親のことを、父親が生きている間はほとんど語ったことがありません。

 でも、死んだ後に、噴き出すように出て来ました。よくこんな細かいことまで覚えていたな・・・というようなどうでもいいようなことを思い出しました。

 思い出を話し出すとなかなか終わらないというのは、「とても一言では語りきれない」くらい、ひとつひとつの細部に思い出がこもっているからです。

 O川君の父親についての言葉は「ひとことで斬り捨てる」ようなところと、「断片的な記憶」が混ざり合っていました。それがO川君とお父さんの微妙な距離感、親疎の揺らぎを表しているんだろうと思います。

 このあと、いずれお父さんが亡くなったあとに、しばらくしてから「どうしてこんなどうでもいいことを記憶しているんだろう」というような思い出がこみ上げてくることがあると思います。そのときに「父のことがけっこう好きだった」ということがわかるのですけれど、その ときにはもう父親はいない。

 そういうものみたいです。

 むずかしい課題の次は、もうちょっと優しい、ずっと技術的な課題を出します。

「説明」です。

文章のうまい人は説明がうまい。これはほんとうです。

『豊穣の海』に本多繁邦(登場人物のひとり)が仏教の「唯識論」の「阿賴耶識」という概念の説明をする部分があります。小説のプロットとはほとんど関係ないんですけれど、この説明がすごい。三島由紀夫はそれについて説明し始めたらつい「乗って」しまったんでしょうね。

もう読んでいてどきどきするくらい面白かったです(読み終わった瞬間に忘れちゃいましたけど)。どんな仏教書よりもわかりやすかったことは間違いありません。

 村上春樹も『1Q84』で1970年代の全共闘闘争のあとに敗残の学生たちが宗教やエコロジーや有機農業にはまりこんでゆく状況を説明した部分がありますけれど、僕がリアルタイムで生きていたその10年間をこれほどみごとに「説明」した文章を読んだ記憶がありません。

というわけで、どのような主張や、どのような美辞麗句よりも、読者が知らないことを読者にわかりやすく説明するという技術はものを書く上で必須のものであり、かつきわめて困難なものなのであります。

 というわけで、今回の課題は「僕のしている仕事」です。

 長い小説の中の途中で、登場人物のひとりがたまたま自分の仕事がどういうものかを他の人に説明しなければならなくなったので、「あのですね・・・」と事情をよく知らない相手に向かって噛んで含めるように説明しているようなつもりで書いてみてください。

 大事なのは「親身になって説明すること」です。

 

 では、がんばってね。