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自分の失敗をどれくらい言葉にできるかは自分をどれくらい観察しているかに相関します。
2022年8月6日の内田樹さんの論考「自分のヴォイスを見つけるためのエクササイズ」(その7)をご紹介する。
どおぞ。
O川さま
おはようございます。内田樹です。
課題ありがとうございました。
今回の説明はとてもよい出来でした。日本酒ができるプロセスについては、とてもわかりやすい説明でした。
でも、この説明を読んで、O川君の書き物に共通する特徴がちょっとわかってきました。
それは「身体性がいささか乏しい」ということと「失敗経験を書くのが苦手」ということです。
お、いきなり・・・とびっくりしたかも知れませんけれど、この二つはたぶん深いところでひとつなんだと思います。
お酒を作るというとても具体的なプロセスについての説明の中に、作っているものの「手触り」とか「匂い」とか「味わい」とか「温度」とか「湿度」とかについての言及が少ないんです。食べものを作っている以上、その説明では嗅覚と味覚への情報入力がふつうは一番先に来るはずなのに、それがあまりない。
僕の知り合いでも「どぶろく」を作っている人がいますけれど、その人の「どぶろく」製造話を聴くのが僕は好きなんですけれど、聴いているうちに喉が渇いてきて、「ああ、飲みたい・・・」という気分になる。
別に特別グルメ的な言葉づかいをしているわけじゃないんです。ただ技術的な説明をしているだけなんですけれど、ポリバケツを洗うときの水が冷たさとか、発酵のときに「ぼこぼこ」気泡が出てくる音が夜中に聞こえるとか、蓋を開けたときの猫のびっくりした反応とか、そういうどうでもいい話を聴いていると「やたら飲みたくなってくる」んです。
こちらの身体の触覚とか味覚とかが動き始めるからなんでしょうね。
それともうひとつ。「ものづくり」というのはつねに失敗と背中合わせです。だから、どうやって失敗を避けるかをめざして技術的な洗練がなされる。
それは人間がどういうところで「たいせつなこと」を見落とすかについての考察でもあるわけです。
「失敗」というのは実は非常に身体的なことなんです。個性的と言ってもいい。
僕がする失敗はすべて「いかにもウチダがしそうな失敗」という個性の刻印を黒々と押されています。「これはウチダならしそうもない失敗だなあ」というような感想を持たれるような失敗を僕はした覚えがありません。ぜんぶ「ウチダ印」付きです。粗忽で、無思慮で、ほら吹きで、「言わなければよかったこと、しなければよかったこと」をして大失敗ということをこの年になるまで繰り返しています。
深沢七郎という作家に「言わなければよかった日記」という本があります(もう絶版でしょうけど)。ひたすら日々の「言わなければよかったようなこと、しなければよかったようなこと」だけが綴られた日記でした。でも、なんだかめちゃめちゃ面白かった記憶があります。
この人は自分の失敗そのものが個性的な作品となりうることをどこかで直感したのでしょうね(そのせいで、命の危険まで経験した人ですけれど)。
自分の失敗をどれくらい言葉にできるかは自分をどれくらい観察しているかに相関します。
だから、失敗というのはとてもたいせつな素材なんです。
でも、それは「反省日記」みたいなものではないんです。そんなこわばったものを書いても仕方がない。誰かに見せるわけじゃなくて、自己観察のため、自分に向けて書くわけですから。自分の失敗を「愉快に」書いて、自分で「納得する」というプロセスを繰り返すことがたいせつなんだと思います。
というわけで、今回の課題は「言わなければよかった日記」です。
これからしばらく毎日「言わなければよかったこと」を1日ひとつずつ探してそれを書いて下さい。別に総括も反省も要りません。ただ1日1個ごく客観的に「今日、こういう場面で、こういう人に対してこんなことを言った。・・・・・言わなければよかった。」とだけ書いてください。がんばってね!
O川さま
おはようございます。内田樹です。
課題提出ありがとうございます。
自転車がO川君にとってとてもたいせつな生きるツールだということがわかりました。
前に大阪の高校まで雨の日も風の日も自転車で通っていたという話をしているときに、O川君にとってそれが自分を保つためにとても重要な経験だったらしいと思いましたが、そのときのことをちょっと思い出しました。
文章は大きくわけると「横に滑る」と「縦に掘る」という二種類があります。
スピード感とかリズムの良さとかいうのは「横に滑る」ことの効果です。次々と違う風景が展開する。その心地よさです。
でも、もうひとつ「縦に掘る」という書き方があります。これはいきなり今いるところからがしがし下に掘るのではありません。横滑りしているうちに、あるところで「井戸に落ちる」ようにぐっと地面の下に掘り進んでしまうのです。
グルーヴ感というか、墜落感というか、浮遊感というか、垂直方向の高度変化だけがもたらす不思議な感覚は「縦に掘る」文章しかもたらすことができません。
よい文章は横滑りから始まって、ある地点で縦掘りになり、また地表に出て、少し横に滑って、止まる。というかたちで整っていることが多いようです。なんとなくですけれど。
O川君の文章は最初の頃のものに比べると(自分で読み比べてみてください)、ところどころで「すとん」と縦に掘るような文章が出てくるようになりました。
まだ深い穴にはなっていませんけれど、それでも垂直方向への「墜落(なのか浮上なのか)」がところどころに感じられます。
これ、とっても大事なことです。
前の便でO川君も書いていたけれど、たぶん現代人は「スピード感」とか「効率」ということをあまりに重視し過ぎているんです。
ときどき立ち止まって、「縦に掘る」ことで文章は深いものになります。
問題は「どこに穴があるか、事前には予測できない」ということです。「掘る」というのはたしかに主体的な動作ですけれど、「穴に足がはまった」ときに「ああ、ここを掘るのか」とわかるのであって、自分で勝手に「ここを掘る」と決めることはできません。
僕が前便で「フック」と言ったのはそのような「穴」のことです。
これを探すのは文章修業のとてもたいせつな課程なのです。
というわけで、次も「フックするもの」を探すという課題で行ってみます。
今回は「どうしても捨てられないもの」です。
「捨てる」というのは人間にとってとても根源的な選択です。「捨てられるもの」と「捨てられないもの」をどういう基準で決めているのかはひとりの人間の特性について多くを語っています。
というわけで、「どうしても捨てられないもの」をひとつでもふたつでも書き出してみて、できたら「どうして捨てられないのか」について自己分析を試みてください。
これはむずかしいかも。
では、がんばってね。