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社会的公正の実現は政府に全面的委ねてはならない
2022年8月14日の内田樹さんの論考「共感にあらがえ」(その3)をご紹介する。
どおぞ。
永井:私がもともと思っていたのは、全人類に「人権の侵害はどんなケースであっても抑止しなければいけない」ということを改めて周知し、どうにかそれが実現できるように公も含めるしかないんじゃないか? ということでした。人権教育というとなんだか大変浅いですが、外のものをガチャッと装着するケースとして「人権教育的なものをしっかりしていく」というのは、例としてありえるんでしょうか?
内田:いま永井くんが「教育」と言っているのは「学校」を想定していると思うんだけど、僕は人の生き方は学校では教えられないと思う。人権教育は学校で教えてくれと思っている親がいるかも知れませんけれど、それは無理筋だと思う。「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
前に、元SEALDsの奥田愛基くんに会って話した時に、半分ぐらいがお父さんの話だった。彼のお父さんは奥田知志さんという牧師で、長くホームレス支援をしてきた人なんです。父親が家の中に知らないおじさんを連れてきて、「この人、あそこの公園にいたホームレスの人だけれど、今日からうちに泊まるから」というようなのが日常という家で彼は育った。だから、困っている人を支援するのが当たり前で、それをするために何らかの理論的な基礎づけや、イデオロギーを動員する必要がない。永井くんも家風の成果なんじゃないですか?
永井:家風ですか...。いや、私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
内田:全然、人権派じゃないね(笑)。
永井:父親が単身赴任先から帰ってきたら母親があることないこと全部盛って言って、そのレポートをもとに父親が怒るわけです。もちろん私もそれに対して反抗します。「こういう大人になったら終わりだな」と思って、まあ反面教師ですよね。「誰の金で飯食ってるんだ!」とか言われ続けてましたし。もちろん私も問題児では確実にありましたけど。
内田:「誰に食わせてもらっているんだ」というのは親が絶対に言っちゃいけないやつですね。僕自身はほとんど親と喧嘩したことがないんです。なんだかこの人たちと考え方、生き方が違うかも知れないと感じたところで早々と家を出てしまったので。相手を説得できるとも思わなかったし、説得されるとも思わなかった。だから、ぶつかって、傷つけ合っても仕方がないから、すっと離れた。
倫理を身に着けるとしたら、実際に、その規範に従って自然に生きている人を見て、その謦咳に接するということを通じてしかないのかも知れないですね。
今度、学校教育で「道徳」が教科化されましたけど、教える先生自身が道徳的な人であって、その立ち居ふるまいから「人のあるべき姿」が滲み出て来るというのであれば、道徳教育も成り立つでしょうけれど、教える先生自身が特段道徳的な人ではないという場合には、教科書を使って道徳を教えることは不可能でしょう。
永井:つまり「マザーテレサはこんな人でした!」ということを教えるだけでは、道徳や倫理は教えることができないわけですよね。たしかにどれだけマザーテレサマニアだったとしても道徳的の程度には大して関係ない気はします。
内田:何の影響もないと思います。まあ、なかにはそれを読んでスイッチが入っちゃう人もいるかもしれないけどね。人倫って、やっぱり生きている人を見て、それに感化されるものですから。
永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。
内田:人権原理主義になってしまったんですね。
永井:だからホームレスの方が実際に目の前で苦しそうにされているときに、「一時的なケアだけでいいのか」と思ってしまうし、「長期的なケアをするのであれば、でも500人とかホームレスがいるから、どうするべきか......」ということを考えてしまって、結局そそくさとその場を立ち去ってしまう。で、そのことが恥ずかしいわけです。なんなんだ自分は、と。
内田:そういう場合に「ホームレスを支援するのは行政の仕事でしょう。そのために税金払ってるんだから」って言って平気で通り過ぎることのできる人もいるだろうし、「参ったなあ。本当は自分が何とかしてあげなくちゃいけないんだけれど、でも急いでるし......」といって内心に葛藤を抱える人もいるでしょう。僕はそれでいいと思うんです。立ち止まって支援することはできなかったけれど、ほんとうは仕事を放り出しても支援すべきじゃなかったのか...と葛藤するというのは人として自然なことであって、人間はそうやって倫理的に成熟してゆくんですから。
僕の哲学上の師匠はエマニュエル・レヴィナスという哲学者なんですけれど、レヴィナスは社会的公正の実現は政府に全面的委ねてはならないということを言っています。スターリン主義のソ連においては、社会正義を実現する責任と権限はすべて国家に与えられた。市民たち一人ひとりは社会正義を実現する義務を免除されたし、自己判断で社会正義を実現する権利も奪われた。だから、目の前で困っている人がいたら、行政に届け出て、「助けてあげてください」と言えばいい。自分の身銭を切ることがない。
スターリン主義は善意から出発したけれど、倫理的に退廃したとレヴィナスは言うんです。正義や平等の実現を国家が担うシステム内では、市民たちは道徳的にふるまう必要がなくなる。
それは神さまが完全に世界を支配している世界と同じです。神さまがすべてを見ていて、善い行いには褒賞を、悪い行いには処罰を間違いなく与えるというシステムだったら、人間は善行をしたり、悪行を咎めたりするインセンティヴがなくなる。飢えた人が目の前にいても「神さまがなんとかしてくれるからいい」となるし、目の前でどんな不正が行われていても、「悪人はすぐに神さまに罰せられるから、自分は何もしなくていい」となってしまうから。公的なものや超越的なものが個人に代わって正義と慈愛を実現してくれる社会では、人間はそれを自分の仕事だと思わなくなる。
だから、人権が守られる社会を作ることはとても大切なんですけれど、公的機関によって人権が完全に守られる社会では、個人は他人の人権のことを配慮する義務を免除される。人権のことを考える必要もなくなる。その逆説も頭に入れておいた方がいいと思います。