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国民ひとりひとりの判断を尊重するだけの器量を備えた国の国旗国歌だけが、国民の真率な敬意の対象になり得る
2022年11月3日の内田樹さんの論考「歌わせたい男たち」をご紹介する。
どおぞ。
二兎社が永井愛さんの『歌わせたい男たち』を14年ぶりに再演する。都立高校の卒業式での国歌斉唱で不起立を宣言している教師と、それを説得する校長との間の緊張した議論を核にした戯曲である。「国旗国歌について」意見を求められたので、次のような文章を寄稿した。
先日ミッションスクールの集まりに呼ばれて講演した。会場は聖公会の学校だったので、講演の前に礼拝があり、会衆とともにオルガンの奏楽に合わせて聖歌を歌い、主の祈りに唱和した。
私はクリスチャンではない。その日の早朝も道場で「朝のお勤め」をしていた。祝詞と般若心経と不動明王の真言を唱えて、九字を切って道場を霊的に清めるのが道場主である私の朝の仕事である。経験を通じて、ある種の儀礼によって「心身が調う」ということがリアルに実感されるようになってから、古人の工夫に敬意と感謝をこめて儀礼を守るようになった。
私自身は宗教儀礼を守るが、門人たちには強制しない。彼らが道場に来る動機はひとりひとり違う。だから、道場という空間への必要な配慮は求めるけれども、それだけである。稽古の前後に一礼する以上のことを私は門人には要求しない。「お願いします」「ありがとうございました」と口にするけれど、これは教える側である私が先に言う。私は道場という場に向かってそう言っている。「これからしばらくの間、よい稽古ができますように」と祈念し、「よい稽古ができました」と謝意を表する。
野球でゲームが始まる時にピッチャーが脱帽してホームベースに一揖(いちゆう)するのと同じである。あれは別に主審に向かって礼をしているのではない。グラウンドに向かって「これからしばらくの間、全員が最高のプレイができますようにお守りください」と祈っているのである。
場に対する敬意というのは、集団において、どの私人にも属さないが誰でもアクセスできる領域、つまり「公共」を立ち上げるためには欠かすことができない儀礼だと私は思っている。そのことはどなたでもご理解頂けると思う。
ここまでは一般論である。問題は、その先にある。国旗国歌への敬意の表明は果たして、ここでいう「場に対する敬意」に相当するのかということである。私は「違う」と思う。
国歌を歌い、国旗に一礼するのは「国家に対する敬意の儀礼」である。だから、国民にそうしろと命令できるし、違背した者には処罰が下されて当然だとおそらく多くの政治家や官僚は思っている。でも、これは私が門人に求めている「道場への敬意」とは質の違うものだ。彼らは自分の意思でこの道場に入門してきたのだし、好きな時に辞めることができる。でも、私たちの多くは日本国民であることの認否について意見を徴されたことがない。気がついたらもう日本国民だった。国旗国歌についてもそうだ。私はそれを制定する場に立ち会っていないし、「国旗国歌はこれでよろしいですか」と当否について意見を徴されたこともない。自分で選んだものではない以上、国旗国歌については「私はそれを受け容れられない」と宣言する権利は全国民に認められるべきだと私は思っている。
ご存じの方も多いと思うが、アメリカ合衆国最高裁は国旗損壊を市民の権利として認めている。かつては国旗の冒涜を禁止する州の法律があった。だが、20世紀の終わり頃に米最高裁判所はこれらの法律を違憲とした。憲法修正第一条が保障する言論の自由は国旗の象徴的威信より重いと判断したのである。
ただし、一人の最高裁判事は「痛恨の極みではあるが、国旗はそれを侮蔑し手にとる者をも保護している」という補足意見を付記した。
私はこの司法官の葛藤を健全だと思う。彼はアメリカ国民が星条旗に敬意を持つことを願っているが、それは強制によるべきではないと考えた。アメリカという国が全国民の敬意にふさわしい国家になれば、国旗への自然な敬意は生まれる。いま、国旗に敬意を欠く人たちがいるのは、アメリカが敬意に値する国でないからだ。だから、国民に国旗への敬意を求めるなら、まず敬意を示されるにふさわしい国を創り上げなければならない。国旗を損壊する市民を罰してみても、それによってアメリカは「敬意に値する国」にはならない。「敬意を示さないと処罰される国」になるだけである。
国旗に対する敬意を実現するために、ある人は「国民に対して国家権力を以て強制する」という方向に進み、別の人は「自然な敬意を持たれるような国を創る」という方向に進む。私は後の方の道を進みたいと思う。
17世紀にウェストファリア条約によって国民国家は国際社会の基本的な政治単位になった。それまでは同質的な国民が、固定的な領土の中に集住し、宗教や言語や文化を共有するということは国家の標準的なあり方ではなかった。それが「デフォルト」になったのは歴史的理由がある。その歴史的理由がなくなればまた別の政治単位が国際関係のアクターになる。国民国家は本質的には暫定的な制度である。でも、しばらくの間(とりあえず私たちが生きている間は)このシステムの中で生きてゆくしかない。そうである以上、この所与の制度をどのように「よりましなもの」「より住みやすいもの」に作り替えてゆくのかということが実践的な課題になる。
「国家などただの幻想だ」と言うことはできるし、原理的にはそれで正しい。でも、そうは言っても、自国の通貨は外貨に両替できる方がいいし、自国のパスポートは外国の入管でも通用して欲しい。「正常に機能する幻想」であって欲しい。
海外に行くと、「日本人としてあなたはこの問題をどう思うか?」という質問をよく向けられる。それについて「私個人は日本という国に何の義理も責任も感じていないので、そんな質問には答えない」という回答は許されない。してもいいが、相手はずいぶん気分を害するだろう。私自身はそういう場合には「日本国民を代表して」意見を述べたり、説明したり、場合によっては謝罪したりする。「日本をできるだけましな国にする」こと、隣国からいくばくかの好意や信頼を得られる国にすることについて私には相応の責任があると思っているからそうするのである。
今の私は求められれば、国旗に一礼し、国歌斉唱に唱和する。若い頃は歌わなかった。「日本はろくでもない国であり、自分はそれを恥じている」と思っていたからである。そんな国の象徴にどうして敬意を示せようか。しかし、ある時期から心ならずも儀礼を守るようになった。もし、日本が「ろくでもない国」であるとしたら、その責任の一端は自分にあると思うようになったからである。人々が、そして私自身がこの国旗と国歌に敬意を向けることがそれほど苦痛ではないようにするためには日本を「少しでもましな国」にする努力をする他ないと考えるようになったからである。
もちろん、これは私の個人的な見解であって、一般性を要求しない。国旗国歌とどう向き合うか、それは国民ひとりひとりの判断に委ねられるべきであって、誰も強制することはできない。そして、国民ひとりひとりの判断を尊重するだけの器量を備えた国の国旗国歌だけが、国民の真率な敬意の対象になり得ると私は考えている。いやがる国民に敬意の表明を強制するような国の国旗や国歌が自然な敬意の対象になることは決してない。
ことは原理の問題ではなく、程度の問題なのである。この先、日本がしだいに「ろくでもない国」になっていったら、ある日私は国旗に礼するのも国歌を歌うのも止めるかも知れない。「昨日まで歌っていたのに、どうして今日から歌わないのだ」と誰かに詰問されたら、「境界線を越えたからだ」と答えるだろう。「もう歌うのが嫌になった」と。
国歌を歌うことができるほどの国なのか、そうではないのか。それを私は日ごと自分自身に問うようにしている。その緊張感を持続することの方が、「いつでも歌う」「いつでも歌わない」とあらかじめ決めておいて、そのルールを守ることよりも、私にとっては国に対する構えとして自然に思えるのである。
そのような緊張感を持っている時に、祖国は私に最も身近に感じられる。