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創造というのは「外からはまるで行き当たりばったりのように見えたのだけれども、ことが終わってから事後的に回顧するとまるで一本の矢が的を射抜くように必然的な行程をたどっていたことがわかる」というプロセスです。
2022年11月3日の内田樹さんの論考「サコ先生との対談本の「あとがき」」(後篇)をご紹介する。
どおぞ。
教育行政が発令した政策はこの四半世紀ほぼすべてが失敗しました。でも、それを文科省も自治体の首長も教育委員会も自分たちのミスだとは認めませんでした。すべて「現場のせいだ」ということになった。指示した政策は正しかったのだが、現場の教員たちが無能であったり、反抗的であったりして、政策の実現を阻んだので、成果が上がらなかった。そういうエクスキューズにしがみついた。
そこから導かれる結論は当然ながら「さらに管理を強化して、現場の教員たちに決定権・裁量権をできるだけ持たせない」というものになります。そうやって次々制度をいじっては、教師を冷遇し、査定し、格付けし、学長や理事長に全権を集中させ、職員会議からも教授会からも権限を剥奪しました。こうすれば「現場の抵抗」はなくなり、教育政策は成功するはずでした。でも、やはり何の成果も上がらなかった。この失敗も「現場が予想以上に無能だったからだ。現場が予想以上に反抗的だったからだ。もっと管理を強化しろ」と総括された。そして、学校現場における「督戦隊」的要素だけがひたすら膨れ上がり、「前線で戦う兵士」の数はどんどん減少し、疲弊していった...というのが日本の現状です。
いま学校教育現場で最も深刻な問題は「教師のなり手がいない」ということです。毎年、教員採用試験の受験者が減っている。倍率が低いので、新卒教員の学力が低下し、社会経験が乏しいせいでうまく学級をグリップできない教員が増えている。それを苦にして病欠したり、離職する教員も多い。こんなことは教員たちから権利を奪い、冷遇し、ことあるごとに屈辱感を与えてきたわけですから、当然予測された結果のはずです。でも、たぶん文科省も自治体の首長も決してそれを認めないでしょう。
もう一度繰り返しますけれど、「管理」と「創造」は相性が悪いのです。
創造というのは「ランダム」と「選択」が独特のブレンドでまじりあったプロセスです。平たく言えば「いきあたりばったり」でやっているように見えるのだけれど、実は「何かに導かれて動いている」プロセスのことです。やっていることは見た目は「いきあたりばったり」ですから「管理」する側から「何をやってんだ」と問い詰められもうまく答えられない。やっている当人は自分がある目的地に向かって着実に進んでいることは直感されるのだけれど、それが「どういう目的地」なのか、全行程のどの辺りまで来たのかは、自分でもうまく言葉にできない。「このまま行けば、『すごいこと』になりそうな気がします」くらいしか言えない。そういうものなんです。完成品が何か、納期はいつか、それはどのような現世的利益をもたらすのかについて答えられないというのが「ものを創っている」ときの実感です。
「創造」は科学や芸術に限られたものではありません。例えば、食文化というのは本質的にきわめて「創造的なプロセス」だと僕は思います。
食文化の目標は何よりもまず「飢餓を回避すること」です。ですから、「不可食物」の「可食化」がその主な活動になります。実際に人類は実に多様な工夫をしてきました。焼く、煮る、蒸す、燻す、水にさらす、日に干す、発酵させる...などなど。それまで不可食だと思われていた素材を使って最初に美味しい料理を創った人は人類に偉大な貢献を果たしたわけですけれども、こういう人たちはそれまで知られていたすべての調理法を試したわけではないと思うんです。よけいな迂回をしないで、割と一本道で目的地にたどりついたんじゃないかと思うんです。じっと食材を見ているうちにその人の脳裏に「これを食べられるものにするプロセス」がふと浮かんだ。まったく独創的な、これまで誰もしたことのない調理法を思いついた。試してみたら、いささか試行錯誤はあったけれど、「美味しいもの」ができた。
このプロセスはまったくの偶然に支配されていたわけではないと僕は思うんです。創造的な調理人は「何となく、こうすれば、これ食えるようになるんじゃないか」という「当たり」をつけてから始めたはずです。でも、どうしてその「当たり」がついたのかは本人もうまく説明できない。「なんとなく、そうすればできそうな気がした」というだけで。
「だいたいの当たりをつけてから、そこに向かう」プロセスのことを「ストカスティック(stochastic)」なプロセスと呼びます。ギリシャ語の「的をめがけて射る」という動詞から派生した言葉です。創造というのは「ストカスティックなプロセス」であるというのは多くの創造的科学者たちが言っていることです。
数学者のアンリ・ポワンカレによれば、数学的創造というのはそれまで知られていた数学的事実のうちから「これとあれを組み合わせたらどうなるかな」という組み合わせをふと思いつくということだそうです。その場合の「これ」と「あれ」はいずれも「長い間知られてはいたが、たがいに無関係であると考えられていた」事実です。誰も思いつかなかったその結びつきにふと気づいた者が創造者になる。
創造的な調理人もそうだと思うんです。これまで不可食とされていた植物や動物は目の前にランダムに散乱している。調理法も経験的に有効なものがいくつかが知られている。ある日、ある調理人が「長い間知られていたが、たがいに無関係であると考えられていた」ある不可食物とある調理法の組み合わせを思いついた。それが新しい料理の発明につながり、人類を飢餓から救うためにいくらかの貢献を果たした。たぶん、そういうことだと思います。
創造というのは「外からはまるで行き当たりばったりのように見えたのだけれども、ことが終わってから事後的に回顧するとまるで一本の矢が的を射抜くように必然的な行程をたどっていたことがわかる」というプロセスです。だから、「ストカスティック」なんです。
多くの創造的な人たちは、学者でもアーティストでも、自分たちの創造の経験を似たような言葉で語るのではないかと思います。
こう説明するとわかると思いますけれど、これはまったく「管理」になじまないプロセスです。僕やサコ先生の関心は、どうやってもう一度「創造」を活性化するかということだと思います。それについて二人ともずいぶん真剣に考えてきたし、いろいろ「実験」もしてきました。本書に出てくる、ソウルに焼肉を食べに行ったり、空港で学生たちとばったり会って旅行にでかけたり・・・というのは、どちらもそのときは「思いつき」ですけれども、あとから振り返ると、「それがあったから、次の展開があった」という重要な足場でした。でも、その時点では成算があったわけじゃないし、どういう効果が期待できるかもわからなかった。何となく「これは『当たり』じゃないかな」という気がしただけです。でも、サコ先生も僕もその直感を信じた。
サコ先生も僕も「管理する側」から見たら、とても手に負えない人たちだと思います。でも、それは僕たちがただ反抗的であるとか、反権力的であるとかいうことではなく、「創造」ということにつよいこだわりを持っているからです。そのことをぜひこの本を通じてご理解頂きたいと思います。
なんだかやたら長くなってしまいましたので、もう終わりにします。最後になりましたが、本書の成立にご尽力くださいました稲賀繁美先生、ラクレ編集部の黒田剛史さん、『大学ランキング』の小林哲夫さん、夕書房の高松夕佳さんにお礼を申し上げます。そしてつねに驚くべき話題で知的刺激を与え続けてくださったウスビ・サコ先生に感謝を申し上げます。みなさん、どうもありがとうございました。