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64年のリンカーン再選の時、第一インターナショナルは祝電を送り、リンカーンはこれに「アメリカ合衆国はヨーロッパの労働者たちの支援の言葉から闘い続けるための新たな勇気を得ました」という謝辞を返している。
2022年11月13日の内田樹さんの論考「アメリカとマルクス」をご紹介する。
どおぞ。
『週刊金曜日』に隔週で1500字の連載エッセイを書いている。けっこうな量がたまったので、ブログにまとめてアップすることにした。時系列になっていないけれど、ご海容願いたい。
アメリカ論を書いている。一章を割いて「マルクスとアメリカ」を論じた。ご存じない方も多いと思うが、マルクスとアメリカの間には浅からぬ因縁がある。
19世紀のアメリカには「ホームステッド法」というものがあった。一定期間公有地で耕作に従事すると土地を無償で与えるという法律である。自営農になることを夢見て多くの人がアメリカに渡り、西部開拓の推進力になった。マルクスはこれを「コミュニズムの先駆的実践」と高く評価していた。マルクス自身も(果たせなかったが)テキサスに移民するという計画を立てていた。
アメリカにはマルクスの知人友人が多くいた。1848年の市民革命失敗の後に、官憲の追跡を逃れて多くの社会主義者・自由主義者たちがアメリカに渡ったからである。彼らは「48年世代(フォーティ・エイターズ)」と呼ばれた。
その中にヨーゼフ・ヴァイデマイヤーというプロシャの元軍人がいた。『新ライン新聞』以来のマルクス、エンゲルスの友人で、ニューヨークで雑誌を創刊した。その少し前にフランスではナポレオン三世のクーデタが起きた。それについて「いったいどういう歴史的条件下で起きた事件なのか解説して欲しい」と旧友マルクスに寄稿を求めた。マルクスが書き送ったのが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』である。
「ロンドンに切れ味のよい政治記事を書く男がいる」ということが評判になり、当時ニューヨーク最大の発行部数を誇った『ニューヨーク・トリビューン』の編集長ホレス・グリーリーがロンドンのマルクスに特派員のポストをオファーした。経済的に窮迫していたマルクスはこの申し出を受け入れ、1852年から61年までの10年間に400本を超える記事を書き送った。いくつかは社説として掲載された。扱ったテーマは英国のインド支配、アヘン戦争、アメリカの奴隷制度などなど。ニューヨークの知識人たちは南北戦争直前の10年間、ほぼ10日に1本ペースでマルクスの状況分析を読んでいたのである。あまり言う人はいないが、実はマルクスは南北戦争前の北部の世論形成に深く関与していたのである。
戦争が始まると、奴隷解放を社会的公正の実現と評価する「48年世代」は当然北軍に身を投じた。64年のリンカーン再選の時、第一インターナショナルは祝電を送り、リンカーンはこれに「アメリカ合衆国はヨーロッパの労働者たちの支援の言葉から闘い続けるための新たな勇気を得ました」という謝辞を返している。これだけの縁がありながら、今アメリカ政治を論じる人たちのうちでマルクスの関与に言及する人はほとんどいない。二度にわたる「赤狩り」(一度目はミチェル・パーマーによる、二度目はジョセフ・マッカーシによる)によって、アメリカ史からマルクスの痕跡はあとかたもなく拭い去られてしまったからである。
先日西部劇映画の政治性を検証するというテーマで授業をした。その時ジョン・フォード監督の『リバティ・バランスを射った男』を観た。東部のロースクールを出たばかりの青年弁護士ランス(ジェームズ・スチュアート)が西部でタフな野生の男(ジョン・ウェイン)と出会って、成長を遂げるという物語である。映画の中に「どうしてあんたみたいなインテリが西部に来たんだ」と問われて、ランスが「ホレス・グリーリーの『青年よ、西部をめざせ』というスローガンに感化されて」と答える場面があった。マルクスをアメリカに呼び込んだグリーリーは「リバティ・バランスを射った男」を西部に送り出してもいたのである。「アメリカは深い」と思わず嘆息を洩らした。