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内田樹さんの「憲法空語論」 ☆ あさもりのりひこ No.1266

憲法と目の前の現実の間には必ず齟齬がある。それが憲法の常態なのである。憲法というのは「そこに書かれていることが実現するように現実を変成してゆく」ための手引きであって、目の前にある現実をそのまま転写したものではない。

 

 

2022年11月13日の内田樹さんの論考「憲法空語論」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

今号は憲法特集ということなので、憲法についての私見を述べる。同じことをあちこちで書いているので「もうわかったよ」という人もいると思うけれど、私と同じようなことを言う人はあまりいないようなので、しつこく同じ話をする。

 憲法についての私の個人的な定義は「憲法は空語だ」というものである。「空語であるのが当然」であり、少し喧嘩腰で言えば「空語で何が悪い」ということである。

 あらゆるタイプの「宣言」と同じく、憲法も空語である。ただし、それは「満たすべき空隙を可視化するための空語」、「指南力のある空語」、「現実を創出するための空語」である。

憲法と目の前の現実の間には必ず齟齬がある。それが憲法の常態なのである。憲法というのは「そこに書かれていることが実現するように現実を変成してゆく」ための手引きであって、目の前にある現実をそのまま転写したものではない。

 だから、「現実に合わせて憲法を変えるべきだ」というのは、いわば「俺は何度試験を受けても60点しかとれないから、これからは60点を満点ということにしよう」という劣等生の言い分と変わらない。たしかにもう学習努力が不要になるのだから、ご本人はたいへん気楽ではあろうが、間違いなく、彼の学力は以後1ミリも向上しない。そのことは日本の改憲論者たちの知的パフォーマンスが彼らが「憲法を現実に合わせろ」ということを言い出してからどれほど向上したかを計測すれば誰にでもわかることである。

 改憲派は「憲法九条と現実の軍事的脅威の間には齟齬がある。だから、軍事的脅威がつねにある世界を標準にして憲法を書き換えよう」と主張している。「軍事的脅威のない世界など実現するはずがないので、そんなものを目指すのは無駄だ」というのは、たしかに一つの見識ではある。「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」する努力なんか誰もしてない世界で、一人だけいい子ぶってどうするんだと鼻で笑う人を見て「ちょっとかっこいい」と勘違いする人だっているかも知れない。

 しかし、「人間は邪悪で愚鈍な度し難い生き物であって、これからも改善の見込みはない」というような言明は居酒屋のカウンターで酔余の勢いで口走るのは構わないが、公文書に書くべきことではない。というのは、いったんそのような人間観を公認してしまったら、これからあと、その社会の成員たちは「より善良で、より賢明な人間になる」という自己陶冶の動機を深く傷つけられるからである。

 本音ではどれほど人間に絶望していても、建前上は全成員が善良で賢明で正直であるような社会を「目標」として制度設計はなされなければならない。これだけは集団として生きる上で譲るわけにはゆかない基本である。全成員が邪悪で愚鈍で嘘つきであるような社会でも「生きていける」ように制度設計することはたしかに現実的であるかも知れないけれど、その制度がよくできていればいるほど、その社会の成員たちが「善良で賢明で正直」になる可能性は減じる。

 成員全員が邪悪で愚鈍で嘘つきであっても機能する社会があるとしたら、それは原理的には一つしかない。「神がすべてを統御する社会」である。神が万象を俯瞰し、成員の行動も内心もすみずみまでをも見通す社会なら、全員が邪悪で愚鈍で嘘つきであっても、社会は機能するだろう。でも人間は神ではない。だとしたら、次善の策としては「神の代行者」を任じる権力者が全成員を「潜在的な罪人」とみなして、その一挙手一投足を監視する社会を創る他ない。

 自民党の改憲草案を読むと、彼らがまさにそう推論していることが分かる。「人間はすべて邪悪で愚鈍で嘘つきであるから、全権を持つ権力者が全員を監視しなければならない」という彼らの国家観と「憲法と現実に齟齬がある時は現実に合わせて書き換えるべきだ」という憲法観はまったく同型的な思考の産物なのである。

 しかし、私は人間の悪さや弱さを「改善不能」とみなすことに立脚する制度設計には反対である。どういう人間を「標準的なもの」と見なすかという観点の選択によって、それ以後に出現する社会のかたちは変わるからである。「宣言」はまさにそのためのものである。「そうなったらいいな」という社会のかたちを可視化するのが宣言の手柄である。「そうなったらいいな」というのは「現実はそうではない」からである。当たり前だ。

 フランスの人権宣言もアメリカの独立宣言も、シュールレアリスム宣言もダダ宣言も未来派宣言も、どれにもその時代においてはまったく現実的ではないことが書かれている。でも、そこには起草者の「そうなったらいいな」という強い願いが込められている。その「強い願い」がいくぶんなりとも不定形な未来に輪郭を与えるのである。

 例えば、アメリカの独立宣言には「万人は生まれながらにして平等である」と書かれている。だが、そう「宣言」されてからも奴隷制度は86年続き、「公民権法」が施行されるまで188年を要し、BLM運動はこの宣言が「空語」であることを証明した。しかし、だからと言って「万人は生まれながらにして平等ではない」という独立時点での「現実」をそのまま受け入れてそう宣言に書き込んでいたら、アメリカ合衆国は今のような国にはなっていなかっただろう。アメリカ合衆国を少しずつでも差別のない国に作り替えていったのはこの「宣言」の力である。「空語には指南力がある」ということをアメリカ建国の父たちはよくわかっていたということである。

 日本国九条二項と自衛隊の存在の齟齬について、わが改憲派はよく「こんな非現実的な条文を持つ憲法は日本国憲法だけだ」と言うけれど、これは端的に嘘である。アメリカ合衆国憲法もまた条文と現実の間に致命的な乖離を抱えているからである。

 連邦議会の権限を定めた合衆国憲法8条12項には「陸軍を召集し、維持すること。但し、この目的のための歳出の承認は2年を超える期間にわたってはならない」とある。世界最大の軍事大国である合衆国憲法は今も「常備軍を持ってはならない」と定めているのである。

 

 この条項は建国時の「連邦派」と「州権派」の間での妥協の産物である。連邦派は常備軍を連邦政府の管轄下に置こうとし、州は連邦政府が軍事力を独占することに抵抗した。軍人は容易に時の政府の私兵となって、市民に銃口を向けるということをアメリカ市民は独立戦争で思い知らされたからである。だから、独立時点で多くの州は「常備軍を持ってはならない」という州憲法を採択した。戦争を遂行するのは職業軍人ではなく、武装した市民(militia)でなければならない。市民は戦う必要があれば応召して銃を執って戦う。戦いが終われば市民生活に戻る。もちろん、そんなのは建国者の理想であって、21世紀の現実とは隔たること遠い。それでも、「現実と乖離しているから改憲しよう」というアメリカ市民がいることを私は知らない。それは憲法を読む度に、独立時点で建国の父たちがどのような理想的な国を未来に思い描いていたのか、その原点に戻って「めざすべき国のかたち」を知ることができるからであろう。この憲法を維持することによって、アメリカは今もまだ「常備軍を持たない国」を(それがいつ実現するかはわからないが)目指すことを意思表示しているのである。憲法とはそういうものである。