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自由と平等と友愛はそれぞれ実践する主体の次元が違います。自由の主体は個人です。平等の主体は公権力です。友愛の主体は、こう言ってよければ、その中間にある共同体です。自由主義の暴走と平等主義の暴走を、中間共同体の常識が抑制する。
2022年11月21日の内田樹さんの論考「アメリカと中国のこれから『月刊日本』ロングインタビュー」(その2)をご紹介する。
どおぞ。
― ただ、今のところアメリカはレジリエンスを発揮できていません。
内田 思い出して欲しいのは、フランス革命が「自由・平等・友愛」という三つの原理を掲げていたということです。自由と平等という食い合わせの悪い原理を調停するために、友愛という「第三の原理」を持ち込んだ。これはまことにすぐれた着眼点だったと僕は思います。
自由も平等も本質的にはかなり暴力的な理念です。自由を突きつめれば「万人の万人に対する闘争」の自然状態(無政府状態)になるし、平等を突きつめれば全体主義監視国家になるリスクがある。どちらも人間にとってたいへん息苦しい社会に行き着いてしまう。個人の自由が最大化すれば、貧富の差・強者弱者の差が歴然と現れる。平等実現の大義を掲げて政府に強大な権力を委ねれば、市民的自由は否定される。どちらか一方だけを選ぶということはできません。
友愛(fraternité)は同じ共同体の仲間に対する気づかい、親切のことです。鄧小平も「先富論」で「富者が落伍者を助ける」ことを自由の条件に挙げていました。でも、残念ながら、市民間の「相互支援」は「義務」として権力者が命令できることではありません。それは「惻隠の心」という人間性の根幹から自然発生的に生まれ出るものです。個人に内在する、「人として当然」という行動規範のことです。法律で定めることも、利益誘導することもできない。でも、この友愛が調停しない限り自由と平等の矛盾は解決不能なのです。
自由と平等と友愛はそれぞれ実践する主体の次元が違います。自由の主体は個人です。平等の主体は公権力です。友愛の主体は、こう言ってよければ、その中間にある共同体です。自由主義の暴走と平等主義の暴走を、中間共同体の常識が抑制する。「理屈としてはそうかも知れないけれど、どうしても納得できない」「それを言っちゃあおしまいだぜ」という理屈にならない人としての情が緩衝材になって自由と平等の矛盾を和らげることができる。
自由も平等も脳がこしらえあげた理屈ですが、友愛は思想ではなく、感情です。だから、どんな理屈を言い立てられても、「呑み込めない」とか「腑に落ちない」とか「鳥肌を生じる」とかいう身体反応が出てくる。それは原理の暴走を抑止する人間的な「アラート」なんです。
だから、友愛がしっかりとした厚みを持つ社会、つまり分厚い中間共同体を持つ社会は自由と平等の対立を緩和する道筋があり、中間共同体が痩せ細った社会では、自由と平等が正面衝突して、社会的分断が避けがたい。厚みのある中間共同体を持っているかどうか、それがレジリエンスの鍵になると僕は思います。