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「もてなし」において最も重要なのは迎えるすべての人に等しく同じレベルの歓待を以て応じることである。相手によって対応を変えてはならない。
2022年11月24日の内田樹さんの論考「歓待ということ」をご紹介する。
どおぞ。
お茶について一言という依頼を受けたが、私は茶道にはまるで暗いので、茶について特段の知見がない。代わりに「もてなし」についての私見を述べる。
「もてなし」の基本は相手によって対応を変えないということである。歓待の本義は、たぶんそれに尽くされる。相手の足元を見て、歓待しておけばこちらに利益があると思う相手には礼を尽くし、みすぼらしい相手には茶も出さないというようなことをする人は「歓待」ということの意味が分かっていない。
歓待のわかりやすいかたちは、荒野をとぼとぼ歩いてきた異邦の人が一杯の水を求めてきた時に、幕屋の主がにこやかに迎え入れて、一宿一飯を供するということにある。遊牧民たちの世界ではこれは絶対的なルールである。当然だと思う。荒野を旅する者である以上、自分自身も、異邦をさまよい、飢えと渇きに苛まれて、見知らぬ幕屋の明かりをめざして歩く身の上になることは高い確率であり得る。その時に、主が博愛主義的な人であれば歓待を受けて生き延び、狭量な人であれば扉を閉ざされて窮死するということであっては困る。自分自身の生き延びる確率を高めるためにも、遊牧民たちは、いついかなる場合でも「異邦人は歓待しなければならない」ということを一般的ルールに定めたのである。ユダヤ教やキリスト教が「隣人をあなた自身のように愛しなさい」と説くのは、そのような切実な集団的経験に裏書されている。
同じルールは医療にも存在する。古代ギリシャの医聖ヒポクラテスは医療人たちが職業的に自立する時、彼らに「相手が自由人であっても、奴隷であっても、診療内容を変えない」ことを誓わせた。医療行為は商品でもサービスでもない。それはそれを求める人がいる限り、相手が富者であろうと貧者であろうと権力者であろうと庶民であろうと対応を変えることなく提供されなければならない。
ヒポクラテスがそのような誓言を求めたのは、もちろん彼の時代にも「相手が金持ちなら診るが、貧乏人なら診ない」という医師がいたからであろう。だが、その時に「世の中、そういうものだ」とそれを認めたら、以後の医学の進歩はなかっただろう。ヒポクラテスはそのことを洞察していたのだと思う。事実、「すべての人に等しく良質な医療を施す」という不可能な目的を達成するために以後2500年医学は安価で簡単な検査法や治療法を探し求め、貧者でも医療を受けられる保険の仕組みを工夫してきた。その努力を動機づけてきたのはこの実行することの困難な「誓い」の言葉である。
「あなたに支援を求めるすべての人を等しく歓待せよ」という太古的なルールが私たちに求める効果もこの誓言と似ている。それは仮にそれが今ここで実現できないことであったとしても、人間の終わりなき努力の向かうべき「無限消失点」として掲げら続けなければならない。「そんなこと不可能だ」と言うのは簡単だし、その方がリアリスティックにも聞こえるだろう。けれども、「実現不可能の目標」は「実現不能なのだから目標とするに足りない」という賢しらな言葉を口にした瞬間に、その人は人間として「進化」することを止めてしまのである。不可能な目標を掲げて前のめりに歩むことを続けたおかげで人間は長い時間をかけて「より人間的な存在」になってきたのである。
「もてなし」において最も重要なのは迎えるすべての人に等しく同じレベルの歓待を以て応じることである。相手によって対応を変えてはならない。だから、供するのは「粗茶」でよいし、むしろ粗茶であらねばならないのである。「茶が粗である」ということは「私は相手によって差別をしていない」という宣言なのである。
だが、その趣旨をもう多くの現代人は忘れてしまった。むしろ、歓待の仕方に細かいグレードの差を設け、「あなたは例外的に高い歓待をされています」と告げれば、来客を喜ばせることができると信じている。だが、それは心得違いである。それは「私はあなた本人ではなく、あなたが所有する権力や財貨や威信に対して敬意を表しているのである。あなたがそれを失ったら、あなたは私からの歓待を期待できない」と告げているに等しいからである。でも、「私が歓待しているのはあなた自身ではない」と言われて喜ぶ人たちの方が今の日本社会では多数派を占めている。残念ながら、日本人はしだいに「歓待」の本義を忘れつつあるようだ。