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シンプルな解に居着かないで、つねに葛藤のうちで揺れ動くことが知性の活性化には最も有効である
2023年1月1日の内田樹さんの論考「ミルの『自由論』について」(後篇)をご紹介する。
どおぞ。
【解説】
『自由論』は名前だけはよく知られているが、あまり読まれることのない古典である。この本は明治5年に中村正直が『自由之理』として翻訳した。ミル存命中だから、たいへん早くに紹介されたことになる。
中村正直はこれを日本近代化のために必須のものと考えて選書した。けれども、壮図虚しく、ミルの成熟した政治的知見はついに日本の政治風土には定着しなかった。定着していれば、近代日本の政治史はもっと穏やかなものになっていただろうし、戦争に敗けることもなかっただろう。だから、この本に書かれていることは近代日本人にとってたいへん理解しにくいことだったということになる。でも、ミルが説いているのは「ものすごく当たり前のこと」なのである。ただし、「大人にとっては」という限定条件がつくが。
西欧の思想家には「過激な人」と「温厚な人」がいる。過激と温厚を分かつのは気質の問題というよりは、前提の違いである。「過激な思想家」は「世の中には(私のような)賢い人間と、圧倒的多数の愚者に二分される」というふうに考えている。「温厚な思想家」は「世の中の人は私同様に誰もそこそこ賢くて、そこそこ愚鈍である」というふうに考えている。
「過激な思想家」はだいたい生まれつきすばらしく頭がいいので、「どうすれば賢くなるか」というような実利的な問いを自分に向けることがない。それに対して、「温厚な思想家」は自分の脳が快調に機能しているときと、いささか不調な場合の差に自覚的である。だからどうすれば「私の頭はもっとよくなるか」ということを若い時からまじめに考究している。そして、総じて「温厚な思想家」たちがたどりついた実践的結論は「シンプルな解に居着かないで、つねに葛藤のうちで揺れ動くことが知性の活性化には最も有効である」という知見であった。
ミルは父親から一種の天才教育を授けられた。父親自身はアカデミックな教育を受けていたのだけれども、おそらくそれでは物足りず、「どうすれば人間の知性はその能力を最大化できるか」について息子を使って実験してみたのだと思う。実験は成功し、そこからミルはいくつかの経験則を会得した。(そんな紹介の仕方をする人はいないと思うが)『自由論』はミルが「どうして私は賢くなったのか」という経験知を公開したものである。
だから、読者諸氏がこの本を「功利主義者は自由という概念をどうとらえていたか?」というような「学的」関心から手に取った場合に得られる知見は世界史の教科書に書いてあることとそれほど変わらないと思う。でも、「どうすれば人間の知性はその能力を最大化できるか?」という自身のリアルな関心から手に取った場合には、そこから読み取れるものがずいぶん違うと思う。
中村正直がこの本を日本近代化のための必須文献とみなしたのは、一読してそのことを理解したからだろう。明治五年と言えば、前年から木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らの岩倉使節団が政府首脳の過半を引き連れて欧米視察に出かけていたまさにその時である。当然、この『自由論』も欧米の先端的学知を採り入れるために読まれたはずである。でも、ここに書かれているような英米の民主主義社会が遭遇した難問は、明治の日本にとっては少しも緊急性のあるものではなかった。日本はそもそも民主主義社会ではなかったし、そうなるべきだという国民的合意もなかった時代の話である。
中村正直はおそらくこの本を「政体にかかわらず、人が集団的に生きてゆく場合に絶対に必要な技術知」を得るための書物として明治の日本人に差し出したのだと思う。その時代の日本は短期間のうちに欧米列強に伍する近代国家になる必要があった。だが、国家有為の人材を育てるための手がかりとして手元には儒学と仏典と武士道くらいしかなかった。
「自説に反対する者はすべて悪だ(だから殺す)」というような水戸学的単純主義を「成功体験」として内面化した人々に政治を任せては近代国家の建設はおぼつかない。近代化に必要なのは反対者を完膚なきまでに論駁して黙らせるタイプの攻撃的な知性ではなく、集団としてのパフォーマンスを最大化するための手堅い知的技術である。そのことに中村はたぶん気がついたのだと思う。
残念ながらこの知見は近代日本に定着して開花することはなかった。でも、今からでも遅くはない。人はいつからでも大人になることはできる。
【参考文献】
アレクシス・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』(岩波文庫)
ハミルトン、マディソン、ジェイ『ザ・フェデラリスト』(岩波文庫)
オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(岩波文庫)
どれも近代市民社会における「政治的成熟」とはどういうことかを中心的論件にした著作である。政治について「大人」が語るとこういう書き方になるという「文章の模範」として読んで頂きたい。