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内田樹さんの「『ストーリーが世界を滅ぼす』書評」(前篇) ☆ あさもりのりひこ No.1319

今、私たちがみずからに問うことのできる最も差し迫った問いは、さんざん言い古された『どうすれば物語によって世界を変えられるか』ではない。『どうすれば物語から世界を救えるか』だ。

 

 

2023年1月3日の内田樹さんの論考「『ストーリーが世界を滅ぼす』書評」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

『ストーリーが世界を滅ぼす』(ジョナサン・ゴットシャル、月谷真紀訳、東洋経済新報社、2022年)の書評を頼まれて、東洋経済オンラインに寄稿した。

 

「ポスト真実の時代の指南書」

 

「ポスト真実の時代」という言葉が私たちの時代を形容する語としてふさわしいものであると実感されたのはいつか。これについてはかなり厳密に時日を挙げることができる。それは2017年1月22日である。その日に放送された「ミート・ザ・プレス」のインタビューにおいて、アメリカ合衆国大統領顧問ケリーアン・コンウェイは、ホワイトハウス報道官ショーン・スパイサーが、第45代アメリカ大統領ドナルド・トランプ大統領就任式には「過去最大の人々が就任式をこの目で見るために集まった」と虚偽の言明をしたことについて問われ、その言明は「もう一つの事実(alternative facts)」を伝えるものだとして報道官の発言を擁護したのである。

 この世界には単一の、客観的な現実などというものはもう存在しない。存在するのはさまざまな視座から眺められ、さまざまなフレームで切り取られ、さまざまなコンテクスト上に配列された、似ても似つかぬ事実たちである。

 alternative factsを日本のメディアは「もう一つの事実」と訳したけれど、よく見るとわかるとおりコンウェイはこのとき複数形を使っている。「もう一つ」どころじゃないということである。

 

 このようなシニカルな態度は「ポストモダニズムの頽落した形態」だと診断する人たちがいる。傾聴に値する知見だと思う。

 ポストモダニズムは「直線的な物語としての歴史」や「普遍的で、超越的なメタな物語」を「西欧中心主義」としてまとめてゴミ箱に放り込んでしまった。歴史解釈における西欧の自民族中心主義を痛烈に批判したのは間違いなくポストモダニズムの偉業である。しかし、「自分が見ているものの真正性を懐疑せよ」というきびしい知的緊張に人々は長くは耐えられない。人々は「自分が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」という自己懐疑に止まることに疲れて、やがて「この世のすべての人が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」というふうに話を拡大することで知的ストレスを解消することにしたのである。

 彼らはこういうふうに推論した。

「人間の行うすべての認識は階級や性差や人種や宗教のバイアスがかかっている(これは正しい)。人間の知覚から独立して存在する客観的実在は存在しない(これは言い過ぎ)。すべての知見は煎じ詰めれば自民族中心主義的偏見であり、その限りで等価である(これは誤り)。」

 こうして、ポストモダニズムが全否定した自民族中心主義がみごとに一回転して全肯定されることになった。これが「ポスト真実の時代」の実相である。気の滅入る話だが、ほんとうなのだから仕方がない。

 ロシアのウクライナ侵攻は「ウクライナの指導部はナチだ」という「ロシアのナラティブ」の帰結であるが、政策の淵源が妄想的なナラティブであることは戦争で現実に人々の身体が破壊され、都市が焼かれることを妨げない。いや、むしろ妄想的なナラティブほど強い現実変成力を持つ。

 

 ジョナサン・ゴットシャルの『ストーリーが世界を滅ぼす』はこのようにして「物語は世界を滅ぼしつつある」現実についての豊富な実例の提示と、そこからの離脱の企て(これは希望的観測にとどまる)を記したものである。その問題意識は次の言葉に尽くされるだろう。

 

「政治の分極化、環境破壊、野放しのデマゴーグ、戦争、憎しみ―文明の巨悪をもたらす諸要因の裏には必ず、親玉である同じ要因が見つかる。それが心を狂わせる物語だ。本書は人間行動のすべてを説明する理論ではないが、少なくとも最悪の部分を説明する理論である。

 今、私たちがみずからに問うことのできる最も差し迫った問いは、さんざん言い古された『どうすれば物語によって世界を変えられるか』ではない。『どうすれば物語から世界を救えるか』だ。」(29-30頁、強調は著者)

 

 物語が私たちを魅了するのは、それに確かな実効性があるからだ。ゴットシャルによれば、私たちが今も愛用しているナラティヴの原型は新石器時代からそれほど変わっていない。最新の人類学的知見は狩猟採集民がとてもフレンドリーで相互扶助的なコミューンを形成していたということを教えている。

 

「狩猟採集民の生活の大原則は非常に単純だ。仲間を結束させることは何でもせよ。仲間割れの元になるようなことはするな。分断の種を蒔くな。(食物、セックスパートナー、注目など)自分の分け前以上を独り占めするな。腕力に恵まれていてもそれを誇示するな。狩りの才能や魅力的な容姿があっても他人にひけらかすな。つまりは良い人であれ。」(161頁)

 

 そのような原始の共同体を安定的に維持するためにストーリーの太古的な原形が創り出された。宗教や道徳や経済活動や親族形成についての規範をメンバーたちが深く内面化するための最も効率的な道具が物語だったからだ。「私たちは物語を通して最も多く、最もよく学ぶ」(45頁)。物語を通じて集団の若き成員たちは、集団の宇宙観と価値観と美意識と行動規範を身につける。

 

 けれども、物語が狩猟採集民由来の太古的な起源を持つという事実そのものが物語の限界にもなる。

 物語は発生的には結束力のある、同質性の高い小集団を形成するための装置だった。ということは、それは同時に「他者」「外部」との間に決定的な境界線を引くための装置でもあったということである。

 排他的な暴力の起源が自分の属する集団への過剰な帰属感、共感の過剰であることを私たちは知っている。テロリストが敵に鉄槌を下さなければならないと感じるのは、敵によって苦しめられている同胞に対して深い共感を覚えるからである。身内に対する共感が敵を罰するインセンティブになる。

 

強い憎しみの裏には強い愛がある。その憎しみと愛はすべて物語によって―実際の歴史、古代の宗教神話、悪の陰謀物語への耽溺によって吹き込まれた。」(177頁)

 

 たしかに「ストーリーテリングのビッグバンは共感のビッグバンをもたらした」のだけれども、それと同時に「物語は共感の数だけ非情を生む」ものでもあった。(177頁)。「共感」には「ダークサイド」がある。

 この「ダークサイド」のもたらす害をどうやって抑制し、最少化するか。それがゴットシャルの物語論の実践的な主題である。「どうやって物語から世界を救うか」がポスト真実の時代の喫緊の学的課題であるというゴットシャルの意見に私は深く同意する。

「物語から世界を救う」手段をゴットシャルは二つ挙げている。

 一つは他者への共感を育てることのできるタイプの物語。もう一つは科学である。