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内田樹さんの「『ストーリーが世界を滅ぼす』書評」(後篇) ☆ あさもりのりひこ No.1321

ある言明が科学的であるか否かは、その言明が「真か偽か」のレベルにではなく、「公共的か否か」のレベルにおいて決されるということなのである。

 

 

2023年1月3日の内田樹さんの論考「『ストーリーが世界を滅ぼす』書評」(後篇)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 物語はもともとは小さい集団を結束させるための装置であり、集団の外部や他者との間にコミュニケーションの回路を立ち上げるための装置ではなかった。けれども、すぐれた物語は読者や聴き手を「他者の心の中」に送り込むという想定外の機能を発揮することができた。

 

「物語は共感装置だ。これが機能するとき、私たちは別の世界、別人の心の中に飛ばされる。物語はお互いを他者として見るのを、究極の形で止めさせてくれる。つまり『彼ら』が『私たち』になる。物語の力が最大限に発揮されるとき、私たちは相手との違いは幻想であり、偏見には根拠がないことを教えられる。」(173頁)

 

 ゴットシャルが引用している歴史学者リン・ハントによれば、18世紀になってから奴隷制、家父長制、拷問などが「突如として非難されるようになった」ことの大きな原動力は「新しいストーリーテリングの形態、すなわち小説の登場」だったそうである。

 

「ハントによれば、小説は自分の家族や血族や国やジェンダーの外にいる人々に共感することを教え、それによって人類史において最も重要な道徳革命のきっかけを作った。」(174頁)

 

 これはストーリーテリングについての気の滅入る話ばかり読まされてきた読者にとっては例外的な朗報である。ハントによれば、共感能力は筋肉のようなもので、フィクションを消費すれば消費するほど共感の「筋力」は強化されるのだそうである。にわかには同意しがたい意見だけれども、文学的素養のない人たちが他者の内面についての想像力の行使を惜しむ傾向があるのはたしかな事実である。

 

 ゴットシャルが期待するもう一つの知的な装置は科学である。

 

「科学は本質的に、現実に関するナラティブのどれが真実でどれが偽物かを見つけ出すために人間が考え出した、最も信頼のおける手法である。(...)科学は、私たちのエゴや物語が私たちに見せたいものではなく、私たちの目の前に実際にあるものを強制的に見せる一つのツールである。」(238頁)

 

 この科学への信頼という点で(プラトンへの手厳しい批判と併せて)ゴットシャルがカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』の熱心な読者だったことが推察される。

「ロビンソン・クルーソーは科学的であり得るか?」というわかりやすい例を挙げて、ポパーは「科学性とは何か」について独特の定義を下した。

 無人島に漂着したロビンソン・クルーソーが孤島に研究室を建て、そこで精密な観察と分析を行って学術論文を書いたとする。孤独な研究者が発表したその論文の中味は現在の自然科学の到達点とみごとに一致するものであった。さて、クルーソーは「科学者」だと言えるだろうか?

 ポパーは「言えない」と答える。ロビンソンの科学には科学的方法が欠如しているからである。「彼の成果を吟味する者が彼以外におらず、彼個人の心性史の不可避的な帰結であるもろもろの偏見を訂正しうる者が彼以外にはいない」からである。

 

「人が判明でかつ筋道の通ったコミュニケーションの修練を積むことができるのは、ただ自分の仕事をそれをしたことのない人間に向かって説明する企てにおいてだけであり、このコミュニケーションの修練もまた科学的方法の構成要素なのである。」(『開かれた世界とその敵』、強調は内田)

 

 ロビンソンの知見が「科学的でない」と判定されたのはロビンソンの科学的知見が間違っていたということではない(実際に正しかった)。そうではなくて、ある言明が科学的であるか否かは、その言明が「真か偽か」のレベルにではなく、「公共的か否か」のレベルにおいて決されるということなのである。

「私の言うことは真理である。誰が反対しようが私の言明の真理性は揺るがない」と揚言する人の語る言葉は(たとえ真であっても)科学的ではない。「私の仮説は間違っているかも知れない。それについての事後的検証を待ちたい」と語る人の言明は(たとえ間違っていても)科学的である。そういうことである。

 

「われわれが『科学的客観性』と呼んでいるものは、科学者の個人的な不党派性の産物ではない。そうではなくて科学的方法の社会的あるいは公共的性格の産物なのである。そして、科学者の個人的な不党派性は(仮にそのようなものが存在するとしてだが)この社会的あるいは制度的に構築された科学的客観性の成果なのであって、その起源ではない。(同書、強調は内田)

 

 科学が科学的であり得るのはそれが「社会的あるいは公共的性格」を持つときだけである。科学者は個人的な努力によって科学的であることはできない。自分が語る科学的言明の真偽、当否についての検証と判断を社会的・公共的な場に委ねることによってはじめて科学的であり得る。

 科学のそういういささか込み入った性格にゴットシャルは「物語からの離脱」の手がかりを見る。

 

 ただ、ゴットシャルはどうやって科学に対する信頼を私たちの中にもう一度根づかせるかについて、特に効果的なアイディアを持っているわけではなさそうである。それは仕方がないと思う。世界を覆い尽くしているこのコミュニケーション・ブレークダウンを解決する方法まで彼に望むのは「ねだり過ぎ」というものだろう。

 それでも、ゴットシャルは、著作の最後の方で、私たちが自分の信念が真実であるかどうかを自己決定することができない以上、自分と異なる信念を持つ他者に対して、せめて「敬意」と「畏怖」を持つことを私たちに勧めている。

 

「『彼ら』の―あなたにとっての『彼ら』が誰であれ―世界観の物語があなたの物語とは噛み合わずに気に障ったとしたら、彼らはかわいそうな人なのかも知れない、場合によっては恐るべき相手なのかもしれないが、軽蔑の対象ではないと理解しよう。あなたがそうすれば、『彼ら』があなたに対して同じ敬意を払ってくれる可能性は高い。」(219頁、強調は内田)

 

 他者との相互理解はたぶん不可能である。だったらせめて「敬意」くらいは持ってもよいのではないかとゴットシャルは書いている。その通りだと思う。

「敬」という漢字の原義は白川静先生によると「羊頭の人の前に祝祷の器を置く形。羌人(きょうじん)を犠牲として祈る意」というなかなか血なまぐさいものである。そこから「つつしむ、神事につかえる、うやまう」などの意が生じた。「敬」を用いた最も印象的なフレーズは「鬼神を敬して之を遠ざく。之を知と謂うべし」である。

 ゴットシャルがポスト真実の時代に立ち向かうときの実践的結論としてたどりついたのがもし「他者は敬してこれを遠ざく」という知見であったとしたら、それは孔子が「知」と呼んだものと図らずも符合する。私はそのことに深い感興を覚えた。

(2022年8月14日)