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いかなる時代にあっても、下品なものは断固として退けられねばならないし、上品なものは擁護され顕彰されねばならない。
2023年3月7日の内田樹さんの論考「品が良いとは悪いとは」をご紹介する。
どおぞ。
というお題を頂いた。よく考えると不思議な論題である。そんなの「わかりきったことじゃないか」と思ったからである。でも、これをあえて主題的に論じて欲しいと求められたのは、「品のよしあし」が「わかりきったこと」ではもうなくなったという現実を映し出しているのだと思う。たぶん編集者のどなたかが、誰かの言動について「品が悪いなあ」という印象を述べた時に、「あなたいま『品が悪い』と言われたが、それはいったいどのような客観的根拠に基づく言明なのですかな。『品が良い/悪い』の判定ができるというなら、その基準をただちに開示せよ」というようなことを言い立てられて、気鬱になったというようなことがあったのであろう。
最近はそういうことが多い。いちいち「個人の感想ですが」とか「写真はイメージです」とかお断りを入れないとうるさく絡んで来る人がいる。
これは「ポストモダン」固有の知的荒廃の現れではないかということをアメリカの文芸評論家ミチコ・カクタニが指摘していた。ポストモダンは「客観的現実」という語を軽々しく口にできなくなった時代である。われわれが見ている世界は、それぞれの人種、国籍、性別、階級、信教、イデオロギーなどのバイアスによって歪められている。それ自体はそれほど目新しい知見ではない。自分が見ているものの客観性を過大評価してはならないというのは、プラトンの「洞窟の比喩」以来ずっと言われてきたことである。だが、ポストモダン期にはその知的自制が過激化した。
「自制が過激化する」というのは変な言い方だが、そういうこともある。プラトンの場合なら、振り返れば洞窟の外には客観的現実があるわけだけれど、ポストモダンが過激化した現代では「振り返って現実を見る」ということ自体がもう人間にはできないと宣告されたのである。客観的現実について語るのは虚しいからもう止めようということになったのである。なんと。
「世界の見え方は人によって違う」ということ自体は常識的な言明である。だが、そこから「万人が共有できるような客観的現実は存在しない」というところまでゆくと、これは「非常識」と言わざるを得ない。2017年1月22日、ホワイトハウス報道官がドナルド・トランプの大統領就任式に「過去最大の人々が集まった」と虚偽の言明をしたことについて問われた大統領顧問ケリーアン・コンウェイが、報道官の言明は「代替的事実(alternative facts)」を伝えたものだと述べたのが、この「非常識」の起点標識をなす。
日本のメディアはこの言明を「もう一つの事実」と訳したが、コンウェイはこのときfacts と複数形を使っていたのである。一つどころではなく、無数の代替的事実が等権利的に併存している新しい世界の始まりがこの日に宣言されたのである。
真実性の証明は誰にもできないとなった以上、発声機会の多い人間、声のでかい人間の勝ちである。それがポスト・ポスト・モダンの知的退廃の実相である。知的節度が過激化したせいで、知的無法状態が現出したのである。
客観的現実さえもが懐疑される時代に「品が良い/悪い」などという判断に普遍性が求められるはずもない。もちろん、それで話を終わりにするわけにはゆかない。
「この世に品が良い悪いなどという判断を下すことのできる者はいない」と冷笑してことが決するようならこの世は闇である。いかなる時代にあっても、下品なものは断固として退けられねばならないし、上品なものは擁護され顕彰されねばならない。世の中には「オルタナティブ」を認めてもよいものもあり、認めてはならないものもある。そして、品位(decency)は決してオルタナティブを認めてはならないものである。
なぜなら、品位はその本質からして「集団内部的なもの」「内輪の決まり」ではないからである。それは「外部」から到来するもの、われわれと共通の論理や価値観や美意識を共有しないもの、すなわち「他者」と向き合うときの作法のことだからである。
他者に向き合う作法とは、一言で言えば、「敬意を示すこと」である。
「敬」は白川静によれば、「もとは神事祝祷に関する字。神につかえるときの心意」を表わす。最もよく知られた用例は『論語』にある「鬼神は敬して之を遠ざく。知と謂うべし」である。
敬とは距離を取ることである。熱いフライパンをつかむときに「なべつかみ」を用いるのと変わらない。
世の中には「鬼神」に類するものがいる。うかつに手で触れると失命するかも知れないものがあまた存在する。それに対する畏怖の現れが「敬」である。ポストモダン的なバケツの底が抜けた「すべては等しく主観的幻想にすぎない」という命題に致命的に欠けているのは他者の他者性に対するこの畏怖の思いである。(『學鐙』2023年春号)