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私たちは奴隷解放宣言のあと、緩慢にではあるが、アメリカにおける人種差別は段階的に解消されたのだろうと考えてしまうが、それは違う。
2023年3月7日の内田樹さんの論考「アメリカに取り憑いた病(『ソフト/クワイエット』パンフレット)」(前編)をご紹介する。
どおぞ。
世界中どこでもヘイトクライムは存在するけれども、アメリカにおける「差別」と「暴力」の突出ぶりは「病的」と形容してよいだろう。
リンカーン大統領が奴隷解放宣言を発令したのは南北戦争中の1863年のことである。でも、人種差別はなくならなかった。南北戦争後の一時期は、南部諸州でも黒人の政治家が次々と登場し、黒人議員が州議会の過半を占める州さえあったが、その後にすさまじいバックラッシュが来た。北軍の撤兵と同時に、南部諸州では、公立学校における人種分離、公園、レストラン、ホテルなど公共施設の使用禁止・制限、識字能力試験を課すことにより投票権を制限するなど、黒人を排除するためのさまざまな州法が制定された(「ジム・クロウ法」と総称される)。
私たちは奴隷解放宣言のあと、緩慢にではあるが、アメリカにおける人種差別は段階的に解消されたのだろうと考えてしまうが、それは違う。いったん黒人たちは奴隷身分から解放されたのだが、南部諸州では、彼らを事実上の被差別身分に落とすことがもう一度合法化されたのである。
それが19世紀末のことである。1964年の公民権法で、黒人と白人が同じ人間として基本的な人権を享受できることが史上初めて確定するまでには、さらに100年を要した。それから半世紀を経たアメリカでBlack Lives Matter 運動が起きたことで、私たちは人種差別がいまだにアメリカ社会を深く蝕んでいることを知った。
なぜ、人種差別の廃絶がアメリカでは遅々として進まないのか?
マイノリティ差別はどこの国でもあることだ、アメリカだけではない。人間とは所詮「そういうものだ」としてシニカルに思考停止する人がいるかもしれない。でも、それは半分正しくて半分間違っている。人間はしばしば非道で残虐であるが、それにしても程度の差というものがある。店舗やレストランでマイノリティを差別的に扱うことと、マイノリティであるという理由で殺すことの間には決定的な差がある。相手の人格を攻撃することと、相手の身体を破壊することの間には、ふつうの人間にとっては越えることの非常に困難な心理的な壁があるはずである。そもそも法治国家であれば、それは重罪人として残る人生を獄中で送るという「割に合わない」代償を支払わなければならない。
けれども、アメリカではその壁が低い。非常に低い。だから、もののはずみで人はこの壁を越えてしまう。
本作は、差別意識がいささか過剰だけれども、ふつうに市民生活を送っている人が、もののはずみで殺人を犯す話である。その日常から異常へのあまりに容易な切り替えがこの映画が観客にもたらすショックと恐怖の根幹部分をかたちづくっている。
ヨーロッパにも人種差別暴力を挿話的に描いた映画はいくつもある。レイシストやセクシストが汚い言葉を吐き散らす場面を私はさまざまな映画で観てきた。でも、そういうことをするのはたいてい「ふつうの人」ではない。スキンヘッドとか、ジャンキーとか、浮浪者とか「ふつうじゃないスティグマ」を背負った人たちである。そういう人たちの差別的なマインドがどうして生まれたのかは、理由がわかる。彼ら自身が「ふつうの人」たちから差別されてきたので、その怨恨を「彼らよりさらに社会的に周縁的で、反撃する実力のない人」に向けるのである。仕組みは分かり易い。だから、社会福祉制度が整備されたり、細やかな気づかいを示してくれる人が身近にいたりすれば、このタイプの被差別意識はかなり緩解するはずだと私たちは信じることができる。
でも、怖いのは、別に誰からも差別されていないし、その人種属性によって社会的不利益をこうむってもいない「ふつうの人」の中に育つ差別意識とマイノリティへの憎悪である。彼らは何か具体的な被害をこうむっているわけではない。その差別意識と憎悪は幻想的なものである。
現実的根拠を持つ偏見なら現実的政策によって矯正可能である。だが、幻想に養われた偏見は現実をどれほどいじっても矯正できない。この映画の怖さはそこにある。
なぜアメリカではそのような幻想的な差別意識が「ふつうの人」の心理の深層に根を張っているのか。それについて個人的な説明を試みたい。