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内田樹さんの「豊かな社会とは」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1369

貧乏と「貧乏くさい」は違う。

貧乏というのはクールでリアルな経済状態のことである。精神状態とは直接にはかかわりがない。だから、貧乏でも心豊かに暮らすことはできる。

「貧乏くさい」というのは経済状態のことではなくて、心の貧しさのことである。

 

 

2023年5月1日の内田樹さんの論考「豊かな社会とは」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

『診療研究』というコアな雑誌に標記のような原稿を寄稿した。いつもの話ではあるけれども、こういうことは何度繰り返し語っても足りないのである。

 

 これまでずいぶん長く生きてきたけれども、日本の国力がこれほど低下した時期は過去になかった。パンデミック、異常気象、ウクライナ戦争、人口減...など地球的規模での大きな問題が目白押しのところに、国内では、政治とメディアの劣化がとめどなく進行し、経済は衰退局面を転がり落ち、国民生活の最後の支えである教育と医療も気息奄々というありさまである。どこにも希望が見られない。

 それでも気を取り直して、よくよく見れば、日本の国力にはまだまだ余力がある。列島には豊かな山河がある。温帯モンスーンの温和な気候と肥沃な土壌と豊かな水資源に恵まれ、植物相・動物相は多様で、温泉や桜や紅葉の名所や神社仏閣のような観光資源はいたるところにあり、食文化もエンターテインメントも伝統芸能も世界標準を超えるものがいくつもある。「国力そのもの」には十分な厚みがある。これを国民みんなが大切に使い延ばし、守り育ててゆけば、あと100年くらいは「豊かで暮らしやすい国」として存続させることは難しいことではない。

 だが、まことに不思議なことだが、そういう穏やかな未来図を描く人は、政官財にはいない。メディアにもいないし、学術の世界でもまず見かけない。見かけるのは目を血走らせて「起死回生の大博打」をねらっている人たちばかりである。防衛費を倍増させて、「いつでも戦争ができる国」にしようと鼻息の荒い人たちがおり、五輪だ、万博だ、カジノだ、リニア新幹線だと「これに成功すれば、経済波及効果は何兆円」というような「取らぬ狸の皮算用」に夢中になっている人たちがおり、「生産性のないやつは生きている価値がない」と揚言する学者やコメンテイターがいる。

 そして、一方には、低賃金に喘ぎ、ブルシットジョブで疲れ切り、ハラスメントでメンタルを壊されて、暗い顔をして職場に通う労働者たちがいる。どうして「豊かなはずの国」で、人々はこんなに「貧乏くさい」のだろうか。それについて考えてみる。

 

 貧乏と「貧乏くさい」は違う。まずそのことを明らかにしておきたい。

 貧乏というのはクールでリアルな経済状態のことである。精神状態とは直接にはかかわりがない。だから、貧乏でも心豊かに暮らすことはできる。

 私が子どもの頃の、関川夏央が「共和的な貧しさ」と呼んだ1950年代の日本社会はそうだった。長い戦争が終わり、もう徴兵されることも空襲を逃げ回ることもなくなり、憲兵や特高や隣組に怯えることもなくなった社会で、大人たちは貧しいけれども、心安らかに日々の生業に励んでいた。家はあばら家で、服は着たきりで、ご飯はおかず一品だけで、遊び道具も何もなかったけれど、私にとってはまことに愉快な子ども時代だった。

 近所の人たちもみな貧しく、それゆえ助け合って暮らしていた。食べ物を貸し借りし、質屋の使い方を教え合い、小さい子どもを預かり合った。まだ行政が十分に機能していなかったから、防犯も防災も公衆衛生も、町内で協力して何とかするしかなかった。冬の夜は大人たちが「火の用心」と言いながら、町内を巡回し、日曜の朝は総出で「どぶさらい」をした。子どもたちはさまざまな工夫を凝らして遊びを発明して、日が暮れるまで路地や神社の境内で時を忘れて遊び続けた。貧乏だったけれど、子ども時代の私はまったく不幸ではなかった。

 それでも、ときどきは玩具であったりお菓子であったり、何か買って欲しいものがある。母親に「買って」と一応言ってはみるが、いつも「ダメ」と即答された。「どうして?」と訊くといつも「うちは貧乏だから」という答えが返って来た。「どうして貧乏なの?」と重ねて訊くと「戦争に敗けたから」で対話は終わった。それ以上は訊いても仕方がないことは子どもにもわかった。1950年代60年代の日本人は貧乏だったけれど、「貧乏くさく」はなかった。

 

 でも、ある時期から日本人は「貧乏くさく」なった。「貧乏くさい」というのは経済状態のことではなくて、心の貧しさのことである。他人の富裕を羨むのもそうだし、自分のわずかばかりの財産をしっかり退蔵して、誰とも分かち合わないのもそうだ。何よりも「公共財」としてみんなが共有する富から自分の「割り前」をできるだけ多めに切り取ろうとするふるまいが最も「貧乏くさい」。

 皮肉なことだが、1964年の東京オリンピックの頃から庶民の生活が豊かになるにつれて、人々はしだいに「貧乏くさく」なった。他人より早く高度経済成長の恩沢に与り、冷蔵庫やテレビや自家用車を所有するようになった家はしばしば家の周りにブロック塀をめぐらせた。無意識のことだったのだろうけれど、近所の人の「嫉妬のまなざし」「邪眼」を遮ろうとしたのだ。それまで簡単に出入りしていた近所の家の大人たちが微妙に迷惑顔をするようになった。米やおかずの貸し借りもしなくなった。そして、郊外にもっとましな家を建てられるようになった人から順に町内を脱出して、「貧しい共和政」はわりとあっけなく消滅した。小銭ができると人は「貧乏くさく」なり、相互扶助的なマインドが消え去り、共同体は空洞化するということを私はその時に学んだ。

 

 私が十代二十代の頃は高度成長が長く続き、三十代にはバブル経済を経験した。みんなが金儲けに夢中になっていた時代であり、日本人が主観的には世界一リッチだった時代である。日本人はマンハッタンの摩天楼を買い、ハリウッド映画を買い、フランスのシャトーを買い、イタリアのワイナリーを買い、ハワイのコンドミアムを買い、ゴールドコーストやコスタ・デル・ソルにリタイアした富裕層のため別荘地を買った。値札がついているものなら何でも買えると思って、人々は多幸感に浸っていた。

 この時の日本人はそれほど「貧乏くさく」はなかった。自分自身の「パイ」が増大し続けている時には、他人のパイの取り分のことはあまり気にならないのだ。欲望は日々亢進していたが、嫉妬や羨望に身を焦がし、富裕な他者の没落を願ったりするというようなことは(あまり)なかった。私のような何の生産性も社会的有用性もない研究をしている学者のところにも、ずいぶん潤沢に研究費が回って来た。不動産や株の売り買いで忙しいビジネスマンの友人たちは、給料だけでつつましく暮らしている私を見て、「金の稼ぎ方を知らないやつだ」と嘲笑してはいたけれど、「まあ、好きなことしていればいいさ。こちらの金儲けの邪魔にはならないんだから」と放っておいてくれた。

 でも、そんな気楽な時代も不意に終わった。自分のパイの取り分が減り出すと、急に人々は貧乏くさくなり、他人の取り分についてあれこれ言い出した。「働きもないのに取り過ぎているやつがいる。社会的有用性に基づいて、資源は傾斜配分されるべきだ」と。そういう理屈をこねながら日本人はどんどん貧乏くさくなっていった。公務員の既得権益を剥がせとか、生活保護のフリーライダーを許すなとか、生産性のない人間は去れとかいう言葉づかいは、私の記憶するかぎり、この時期にはじめて登場したものである。それまでは聞いたことがなかった。

 

 21世紀に入って四半世紀近く経つ。今の若い人に「日本は豊かな国ですか、貧しい国ですか?」と訊ねたら、たぶん半数以上が「貧しい国です」と答えるだろう。GDPはかろうじて世界三位だが、一人当たりGDPは28位(2022年)。シンガポール、香港の後塵を拝しており、韓国・台湾に抜かれるのは時間の問題である。軍事力だけが例外的に突出して高いが、それ以外の「国力指標」は全面的に下がり続けている。平均給与はOECD28か国中22位、ジェンダーギャップ指数は146か国中116位、報道の自由度ランキングは180か国中71位。貧しく、不自由で、生きづらい国なのだ。

 

 数年前に米国の雑誌が日本の大学の衰退について特集を組んだことがあった。その記事の中で、今の日本の大学をどう思うか、教員学生にインタビューをした時に、彼らが実情を叙した時に用いたのは、「罠にはまった」(trapped)、「息苦しい」(suffocating)、「身動きできない」(stuck)といういずれも身体的な苦しみを表わす形容詞だった。たぶんこれは今の日本社会を生きている多くの人たちに共通する実感なのだろうと思った。