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損得勘定とか費用対効果というような寝言を言っている人間は経済の本質と無縁なのである。
2023年6月29日の内田樹さんの論考「平川克美『「答えは出さない」という見識』(夜間飛行)書評」(後篇)をご紹介する。
どおぞ。
さて、この本のかんどころは「贈与」と「責任」について論じたところである。ここでは平川君も声に熱がこもっている。
「この世の中に、実は等価交換は思ったほど多くありません。多くのことは、等価交換ではなく、贈与交換によって成り立っています。」(136頁)
贈与について、マルセル・モースやクロード・レヴィ=ストロースの贈与論が祖述される。価値あるものを贈与された者はそれを退蔵してはならない。それを他者に贈与しないと「悪いこと」が起きる。これを「反対給付義務」と言う。贈与と反対給付の仕組みを持たない社会集団は存在しない。
前近代ではこれは「お天道さまが見ている」という信仰のかたちをとった。平川君は落語『文七元結』を例に贈与の理法を説く。
「自分は金がないのに、困っている人がいれば、『助けたい』という思いが募って、なけなしの自分の金を渡してしまう。(...)この落語では、表層にある、不合理な選択と合理的な選択のどちらを人は選ぶべきかということの背後に、もうひとつ別の次元があることが示唆されています。
それは人を助けたということをどこかで誰かが見ていて、それに対して自分では意図しないところから返礼が来るというような信仰の次元です。昔の日本人は『お天道様が見ている』ということをよく言いましたが、これは最終的な審判は天がしてくれるという信仰ですよね。」(148-9頁)
現代日本社会も決して例外ではない。例えば、挨拶は一種の「贈り物」であるから「おはようございます」と挨拶されて、それに返礼しないと「何か悪いこと」が起きる。お中元・お歳暮をもらってお礼状を出さないと「何か悪いこと」が起きる。近代でも贈与の呪術性についての信仰は細々とだけれども残存している。
いささか説明を加えるが、贈与経済の起点にあるのは、「私は贈与された」という被贈与感覚である。それを感じた人が反対給付義務にせかされて、誰かに何かを贈る。そこからエンドレスの贈与経済が始まる。
沈黙交易の場合だと、自分たちのテリトリーと異族のテリトリーの境界線近くに「何か」が落ちているときに、それを「贈り物」だと直感した人が反対給付として、何か価値あるものをそこに置くことになる。次に同じ場所にゆくと前に置いたものがなくなっていて、代わりに何か別のものが置いてある。これが沈黙交易である。
最初に「あ、こんなところに私宛ての贈り物がある」と思った人が見たのは、実は風に吹き飛ばされてきたものかもしれないし、動物が咥えてきたものかもしれないし、誰かが捨てていったものかもしれない。でも、「これは私宛ての贈り物だ」と感じた人がいると、その人を起点に贈与経済のサイクルが開始されるのである。
だから、経済活動においては、何かを見て「あ、これは私宛ての贈り物だ」と思い込んだ人が一番えらいのである。「世界は自分に対する恩寵で満ちている」というタイプの多幸症的な世界観を持つ人が贈与経済の創始者なのである。損得勘定とか費用対効果というような寝言を言っている人間は経済の本質と無縁なのである。
平川君は責任についてもとても大事なことを言っている。
「人生においては、ある事物や出来事に対して責任を負う範囲が大きくなる瞬間があります。何度も言っていることですが、自分に責任のないものに責任を取るという姿勢こそがたいせつで、たとえば、赤の他人がしたことに対してまでも『それは自分の責任である』『自分がその責任を負っている』と感じられるようになることが、成熟に結びついていくように私は感じています。」(222頁)
「隣の弱者に対して、そこには幾分か自分の責任があるのだと自覚し、自分が他者の境遇に対してまでその責任を負おうとする。このような形で、人は成熟の階段を上りはじめると言ってよいでしょう。自分が獲得したものの重さではなく、負債として感じているものの重さを感じ取る感性こそが、人を成熟させる。」(223頁)
これはまったく平川君の言う通りである。ここで平川君はほとんどエマニュエル・レヴィナスと変わらないことを語っている。レヴィナスはこう書いていた。
「私の有責性の範囲はどこまでなのでしょう? ある程度まで、私は他者における悪については自分が有責であると思っています。他者を責め苦しめるものについても、他者が苦しめるものについても、ひとしく有責であると思っています。私は人間的には他の人間から放免されることはないのです。」(レヴィナス/ポワリエ、『暴力と聖性』、内田樹訳、国文社、1991年、135頁)
平川君は「私たちは、生まれながらにして負債を負っている。それをなんとか返していこうとするわけです」(224頁)というきわめて宗教的な命題を語る。
「だから、他者が貧乏になっていることへの責任を自分も分かち持とうとする。本来は自分に責任のないことに対してまで、責任の範囲を広げてしまう。」(226頁)
一方、レヴィナスはこう書いている。
「自分のなしたこと以上の責任を負うという、この有責性の過剰が生起する場所が宇宙のどこかにありうるということ、それがおそらく畢竟するところ、『私』の定義なのである。」(Lévinas, Totalité et Infini, Martinus Nijhof, 1961, p.222)
自分が犯していない罪過についてさえ有責性を感じることが「できる」というこの逆説的な権能のうちに主体性は棲まっている。これが主体性であり「善性」である。レヴィナスはそう述べた。この一行にレヴィナスの哲学は集約されていると言っても過言ではない(少し過言だが)。
平川君はこのレヴィナスの哲学を独特の仕方で血肉化している。たぶん平川君はレヴィナスの『全体性と無限』も『タルムード四講話』も読んでいないと思う。でも、彼自身の具体的な、市井の人としての経験から、レヴィナスの命題とほとんど同じ結論に達した。
僕は「レヴィナスと同じようなことを言っているからすごい」と言いたいわけではない。レヴィナスもまた、彼自身の生身の、切れば血の出るような経験から、有責性についての哲学を手作りしたのである。それが平川君の哲学と符合した。それだけ彼らの知見には普遍性があるということなのである。