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内田樹さんの「関東大震災から100年 朝鮮人虐殺について考える」(後篇) ☆ あさもりのりひこ No.1400

人々の事績の正否について語り継ぐのは「天の仕事」ではなく、「人間の仕事」である。

 

 

2023年8月21日の内田樹さんの論考「関東大震災から100年 朝鮮人虐殺について考える」(後篇)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

― それはどういうことですか。

 

内田 村上春樹は『遠い太鼓』というエッセイ集で、イタリアの友人に案内されて彼の故郷であるメータ村を訪れる場面を描いています。友人はメータ村のことをこう語ります。

「第二次大戦のことを、先週の話みたいに話すんだ。(中略)戦争中ナチの兵隊が村にやって来て、レジスタンスの容疑で村の青年を二人捕まえていったことがあった。彼らは二度と帰ってはこなかった。(中略)今でもその話をずううっとみんなで真剣な顔して話してるんだ」

 メータ村の住人たちは第二次大戦のことを「先週の話」みたいに、「ずううっとみんなで真剣な顔して」話し続けている。こうやって自らの体験を繰り返し物語るということが本来の意味での「歴史を語り継ぐ」ということだと僕は思います。

 以前、アメリカで『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』というラジオ企画がありました。作家のポール・オースターがラジオで「自分が経験した嘘のような本当の話」を募集したものです。全米から4000通の投書が集まり、その中からオースターが選したものを放送しました。それぞれのエピソードは人種、性別、職業、地域性を色濃く反映したもので、それを通じて「アメリカが物語るのを聴いた」とオースターはその感動を語っています。

 この野心的な試みを真似て、10年ほど前に高橋源一郎さんと僕が選者になって「日本版ナショナル・ストーリー・プロジェクト」という企画を思いつきました。こちらも2000通ほど投書が集まったのですが、これがアメリカの「ナショナル・ストーリー」とは全く違う意味で「日本社会のありのまま」を表現するものでした。

 多様性がないのです。エピソードはそれぞれ面白いのですけれど、ほとんどのものは投稿者が何者だか分からなかった。男性なのか女性なのか、若者なのか老人なのか、都会の人か田舎の人か、ホワイトカラーなのか肉体労働者なのか、しばしば読み終わってもわからなかった。だから、多様な個人の思い出を総合して日本社会を浮かび上がらせるという企図は達成できませんでした。でも、逆に「ああ、これが日本だ」ということはわかりました。日本は、その成員をみごとなまでに規格化してしまう社会なのだということは骨身にしみてわかりました。

 先に公開された映画『国葬の日』(大島新監督)は安倍晋三元首相の国葬当日の日本各地の人々の声を採録したドキュメンタリー作品です。「賛成」「反対」「無関心」さまざまな立場の人々の声をすくい上げて、日本国民の政治的多様性を描き出そうというのがたぶんもともとのアイディアだったのだろうと思います。でも、実際には、僕たちの「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」と同じように、どの立場をとるにせよ、ほとんどの人が聞き覚えのある定型句を繰り返すだけでした。

 自分の政治的立場を語る言葉がやりきれないほど貧しい。ほんとうにリアルな思いがあり、それを言葉にしようとしたら、出来合いの定型句では間に合いません。何を言っても言い過ぎるか言い足りないかして、じたばたするはずです。でも、その「じたばた」を経由して「ほんとうの思い」が垣間見える。でも、いまの日本人が政治について語るときには「言葉を探してじたばたする」ということがない。自分の個人的感懐を何とかして言葉にしたいという切迫がない。だから、「出来合いの言葉」をぺらぺらと語ってしまう。

 でも、「正論」や「一般論」なんて、極端な話、どうだっていいんです。どうせ、誰かが同じことを言うんですから。言う価値があるのは、自分が身体を張ってでもここで言わなければ「他の誰も自分に代わって言ってくれない言葉」です。一般論や大義名分は言葉としては「軽い」んです。だって、自分が身体を張って言わなくても「誰かが」自分に代わって言ってくれるはずだから。自分が身銭を切ってまで言い続ける必要なんかない。簡単に捨てられる言葉だからこそ、言葉が軽くなる。

 

― なぜ日本人は一般論や正論しか語れなくなってしまったのでしょうか。

 

内田 「個人的にリアルなこと」より「一般的に正しいこと」の方を優先するようになったからでしょう。「個人的にリアルなこと」は言葉にしにくい。それを何とか言葉にしようと努力すれば、言葉はその分熟成して豊かになる。でも、その努力を日本人はもう放棄してしまった。面倒なので、出来合いの言葉を借りて済ませてしまうことにした。出来合いの言葉は「多数派の言葉」でもあります。だから、定型句を口真似している限り、なんとなく「多数派に属している」ような気分になれる。

 もともと日本は同調圧力が過剰な社会ですけれども、今はSNSによる相互監視が広がったせいで、「誰でも言いそうなことを言え」という同調圧力が異常に高まっています。その結果、「一般論」と「逆張り」の二種類しか言葉がなくなってしまった。どちらも「誰でも言いそうなこと」です。「逆張り論客」たちにあれほどフォロワーが多いのは、真似することが簡単で、知的負荷がないからです。

「歴史を語り継ぐ」というのはその反対です。「自分が語らなければ誰も語る人がいない言葉」を語り、それを公共の知的資源として、誰でもアクセスできるようなパブリックドメインに供託するということです。そのためには、一人一人が「自分だけが証言できる言葉」を語るしかない。一般論や正論なんか100万人が語っても、歴史を語り継ぐ上では無意味なんです。

 

― そもそも歴史を語り継ぐとは、どういうことですか。

 

内田 それは個人の仕事です。よく「歴史の風雪に耐えたものだけが生き残り、歴史の淘汰圧に耐えられなかったものは消えていく」と言われます。でも、そこまで歴史の審判力を信じてよいと僕は思いません。現実には、善人が受難し、悪人が栄耀栄華を極め、賢者が不遇に甘んじ、愚者が脚光を浴びるというようなことは日常茶飯事です。歴史の審判力は軽々には信じることができない。でも、いまの日本人は「現実化したものは現実化するだけの価値があった。消えたものは現実化するだけの価値がなかった」という虚無的な歴史主義を信奉しています。

 かつて司馬遷は『史記』の冒頭で「天道、是か非か」という激越な言葉で歴史の審判力を問いました。司馬遷は「列伝」の第一に「伯夷列伝」を置きました。伯夷・叔斉の兄弟は周王朝の禄を食むことを拒んで餓死した仁者です。仁者が窮し、盗蹠のような極悪人が天寿を全うしたことを歴史の審判として無批判に受けいれてよいのかと司馬遷は問います。伯夷・叔斉の名を後世に残したのは「天道」ではなく、孔子という個人でした。人々の事績の正否について語り継ぐのは「天の仕事」ではなく、「人間の仕事」である。司馬遷はそう言い切ります。これは歴史家の態度として正しいと僕は思います。

「歴史を貫く鉄の法則性」が僕たちに代わって真理を語ってくれるわけではない。歴史は僕たちが個人の資格で語るしかない。もちろん歴史の全容を「神の視点」から一望俯瞰して語れる人間なんかいません。僕たちにできるのは自分が確信を持てることを語ることです。あるいは、この人のこの言葉は後世に語り継がれるべきだと信じた人の言葉を伝える。「如是我聞」も「述べて作らず」も「子曰く」も風儀は同じです。

 

― 内田さんが自ら語り継ぎたい歴史はありますか。

 

内田 個人的には、李氏朝鮮末期の東学党の乱から日韓併合に至る時期の日韓の歴史について語り継ぎたいと思っています。この時期、樽井藤吉、権藤成卿、内田良平、鈴木天眼、金玉均、金琫準ら日韓両国の憂国の士たちがごく短期間でしたけれど、日本列島と朝鮮半島が一つの国になるという理想を共に抱いた。それは明治初年の「征韓論」と日韓併合の間の一瞬の「仇花」でしたけれども、その素志は尊いと思います。彼らもまたのちの在日コリアンのように、両国の狭間に生きた人々であり、今では両国の歴史どちらにも占めるべき場所を持っていません。でも、僕は彼らの名が忘れられることを惜しみます。

 そう思っていたところ、『月刊日本』から権藤成卿の著作を復刊するから解説を書いてほしいというご依頼を受けましたので、いまこつこつ書いているところです。日韓の人士の個人的でリアルな交流に軸足を置いて書くつもりでいます。例えば、天祐俠の若者たちはわずか14名で東学党の領袖全琫準に会いに行き、同盟関係を結びます。鈴木天眼はその時の全琫準の印象についてこう証言しています。

「長き脊の直立せる姿勢にて、寧ろ痩せたる神経質らしき顔面に炯たる眼光を閃かし急調絶語、声涙並び下るの處、予輩をして肝胆震動せしむ。彼の当時の音容は予が一生涯目にすがるものなり。予輩乃ち生死の友たるを盟ふて聊か後図を約せり」

 

 日韓両国の革命家たちが初めて出会った時の証言が「生死の友たるを盟ふて聊か後図を約せり」だったことは重いと思います。この言葉を語り継ぐだけでも彼らを供養することにも日韓両国の未来に資することにもなると思います。(7月31日 聞き手・構成 杉原悠人)