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知的であることとはどういうことか、それを一言で言うと、「慎ましさ」だと思うんです。無限の知に対する「礼儀正しさ」と言ってもいい。
2023年9月9日の内田樹さんの論考「学校図書館は何のためにあるのか?」(その5)をご紹介する。
どおぞ。
書物というのは、その母語のアーカイブへの「入り口」です。書くことも、読むことも、この豊かな、底知れない母語のアーカイブに入ってゆくための回路です。それは日常的な現実とは離れた「境界線の向こう側」に、「地下」に、「この世ならざるもの」と触れ合うことです。現代社会で支配的な価値観や美意識やイデオロギーが通用しない境位なのだけれど、理解できる。というのは、その母語のアーカイブが自分自身の言語感覚や語彙を形成しているからです。自分が使っている論理型式や、自身が思念や感情を表現するときの語彙も、すべてそのアーカイブに由来する。
人の家に行ったときに、しばらくいて息苦しくなってきて、なんとなく帰りたくなってしまう家というのがありますけれど、僕の場合は「本が無い家」がそうなんです。どれほど綺麗にしてあっても、長くいると息苦しくなってくる。酸欠になるんです、本が無いと。本というのは「窓」だからです。「異界への窓」というか、「この世界とは違う世界」に通じている窓なんです。だから、本があるとほっとする。外界から涼しい空気が吹き込んで来るような気がして。
僕の友人の家に行くと、だいたいそうなんですけども、トイレに本があるんです。うちもすごいです。もう、半端じゃない量の本がトイレに積み上げてある。トイレって、空間的にかなり閉塞感があるところですけれど、そこに何冊か本が並んでいるだけで閉塞したところから何か広々としたところに出ていったような気がする。広いところで排泄作業しているような気になるんです。ですから、トイレに読みたい本が無いときって、行く前に読む本を探すんです。自分の書棚の前で、足踏みしながら、「たいへんたいへん」と言いながら、「えーと、これじゃない、これじゃない」と言いながら、本を選んでる。「お、これだ」と決まるとトイレに駆け込む。本が無いと、トイレが狭く感じるんです。でも、本を開くと、解放される。本が持っている異界への開放性の効果なんだと思います。
よく図書館の方から聴くのは、行政から「来館者の数を増やせ」とか「閲覧回数の少ない本は捨てろ」とかいろいろ圧力があってつらいという話です。でも、来館者の数を増やせというのはちょっと筋違いじゃないかと思うんです。僕の個人的意見ですが、図書館というのは基本的に人があまりいない方がいいんじゃないですか。人がいっぱいいて、ごみごみしている図書館が理想的なものだとは僕にはまったく思えない。図書館というのは基本的に人がいない場所なんです。
『ジョン・ウィック』 でも、たしかニューヨーク市立図書館かどこかで、キアヌ・リーブスと殺し屋が格闘する場面がありましたよね。書架の間で格闘するんです。でも、何分間か殴り合ったり、刺し合ったりしているんですが、その間誰も通らないんですよ。もう本棚にぶつかるわ、机は壊すは、大騒ぎしているのに、誰も通らない。それどころか、図書館の本の中に、たしか私物を隠してるんです。ジョン・ウィックは誰も借りそうもない本をくりぬいて、武器かなんか隠しているんです。つまり、映画における図書館の基本設定が、「そこで格闘していても誰も気がつかない」、「何年間も誰も手に取らない本がある」ということになっている。僕はこの基本設定は「正しい」と思いますね。それでいいんです。基本的に図書館っていうのは人がいないものなんです。
人がいない書架の間を1人でこつこつと靴音を響かせながら歩く。僕自身の印象的な図書館の思い出というと、全部それなんです。無人の図書館をどこまでも1人で歩いてゆく。どこまでも続く書棚がある。そこには自分がまったく知らない作者の、まったく知らないタイトルの書物がどこまでも並んでいる。自分がそんな学問分野がこの世に存在していることさえ知らなかった分野の本が何十冊も並んでいる。それを見ながら、「そうか、ここにある書物のうち、僕が生涯かけて読めるのは、その何十万分の一だろうな。残りの書物とはついに無縁のまま僕は人生を終えるのだろう」ということを骨身にしみて感じる。無人の図書館で、圧倒的な量の書物を眺めた時に感じることは、「ああ、僕はこれからこういう本を読むのだ」じゃなくて、「一生かけても読まない本がこれだけある」ということなんです。
僕はそれを痛感させることが図書館の最大の教育的機能だと思います。図書館の使命は「無知の可視化」だと思うんです。自分がどれほど無知であるかを思い知ること。今も無知だし、死ぬまで勉強してもたぶん無知のまま終わるのだ、と。その自分自身の「恐るべき無知」を前に戦慄するというのが、図書館で経験する最も重要な出来事だと僕は思います。だからこそ、あらゆる映画において、図書館は無限の知の空間として表象されている。
図書館というのは、「蔵書が無限である」ということが前提なんです。蔵書が無限であるので、あなたはこの図書館のほんの一部をちょっとかじるだけで一生を終えてしまい、あなたが死んだ後も、この巨大な図書館の中には、あなたがついに知ることのなかった叡智や感情や物語が眠っている。ボルヘスの『バベルの図書館』なんてまさにそうですね。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』もそうですよ。あれも巨大な、蔵書が無限の図書館という設定ですね。修道士たちがいるのだけれど、誰一人蔵書を読み尽くすことはできないほど無限に書架が続いていて、案内なしに一度図書館に入り込むともう出ることができない。『インターステラー』もそうでしたよね。最後の場面は宇宙の果てまで続く無限の図書館の映像でした。図書館って本質的に無限なんです。
図書館がそこに立ち入った人間に教えるのはたぶん「無限」という概念なんです。そこに足を踏み入れた時に、おのれの人生の有限性とおのれの知の有限性を思い知る。これ以上教育的な出来事ってこの世にないと思うんです。どれほど自分が物を知らないのか、物を知らぬままに人生を終えるのか、これから一生かけてどれほど賢くなろうと努力しても、この巨大な知のアーカイブの中の、欠片ほどのものにしか自分は触れることができない、身につけることができない。でも、欠片ほどであっても、自分がこの無限に続く場所の一部には触れることができるし、うまくすればその一部になることができる。もしかしたら、この無限へ続く場所に、何か自分が創り上げたものを加算することができるかも知れない。
知的であることとはどういうことか、それを一言で言うと、「慎ましさ」だと思うんです。無限の知に対する「礼儀正しさ」と言ってもいい。自分がいかにものを知らないか、自分の知が届く範囲がどれほど狭いかということについての有限性の覚知です。でも、自分がおのれの有限性を覚知できたのは、目の前にこうやって「無限の知に向けて開かれている図書館」があったからです。僕は図書館からしっかりメッセージを受け取った。僕と図書館の間でコミュニケーションが成立した。