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内田樹さんの「学校図書館は何のためにあるのか?」(その7) ☆ あさもりのりひこ No.1417

武道をやると礼儀正しくなるとか愛国心が涵養されるというようなことを言う馬鹿がいますけれど、そんなことを教えているわけじゃない。

 

 

2023年9月9日の内田樹さんの論考「学校図書館は何のためにあるのか?」(その7)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 学校っていうのは、実はその「聖なるもの」である子どもを受け入れて、この子たちをゆっくりゆっくりと「聖なるもの」から切り離してゆく場所なんです。僕らから見ると「謎めいたもの」と繋がっている子どもたちを上手い具合に外部や異界から切り離して、こっちの世界へ持ってくるという、とてもデリケートな切り離し作業みたいなことをするのです。

 教室も道場と同じで、「超越的なもの」や異界との交流の場なんです。デリケートな。「周礼」も士大夫が学ぶべき君主の「六芸」ってあるじゃないですか。礼、楽、射、御、書、数。

 一番が礼なんです。君主が学ぶべき学問の一番が礼。礼って、礼儀作法のことじゃないですよ。「鬼神」に仕えるときの作法です。「鬼神」とはこの世ならざるものです。異界に連なる者です。この人間の常識を超えたものに仕えるために正しいマナーをまず学ぶ。

 それから楽、音楽です。話が長くなるので、はしょりますけれど、要は時間意識の拡大ということなんです。音楽って、「もう過ぎた時間」と「まだ来ない時間」の両方の領域に触手を伸ばすことができる能力がないと聴き取ることができないんです。リズムもメロディーもどちらも「もう聴こえない音」と「まだ聴こえない音」をいまここで聴き取れることができないと成立しない。

 射は「弓を射る」ですから、武道一般のことです。御は「獣を御す」、野生獣を馴致させて、人間の世界で有用な働きをさせる能力のことです。日本でも武道のことを古くは「弓馬の道」と言いましたけれど、射と御を合わせたものが武道に当たるわけです。

 図書館の仕事はこの六芸のうちの「礼」に相当するものだと思います。みなさん方は「ゲートキーパー」だと申し上げました。学校という、子どもたちを「あちらの世界」から「こちらの世界」へそっと移動させる、すごくデリケートな仕事をする場なんです。半ば野生の存在である子どもたちを文明化していく。もちろん、痛みを伴うプロセスです。その成長を教員たちは支援する。それが仕事なんです。

 

 うまく学校に適応できない子どもたちって今たくさんいますね。何で学校に来ないかと言うと、子どもたちの中にある「謎めいたもの」、「ミステリアスなもの」を学校教育がゼロ査定しているからだと思うんです。子どもをただの「小さな大人」「無能な大人」だと思って扱っている。もっと子どもたちに対して、ある種の畏怖の念、敬意を持つべきだと僕は思うんです。

 保健室登校というのがありますね。教室には来られないけど、保健室には行ける。あれは医療というのが、学校教育とは全く別のカテゴリーの活動だということを子どもたちも直感的にわかっているからだと思うんです。だいたい、保健室の先生って、女の方ですよね。ナースの系譜ですから。ナースって元をたどると魔女の系譜に連なる。産婆のことをフランス語ではsage femmeと言います「知恵ある女」という意味です。前近代まで、この「知恵ある女」たちが薬剤を調合したり、病気を治したり、出産を支援したりしていた。そして、しばしば彼女たちはカトリック教会からは「異端の信仰を持つ魔女」として処刑された。

 だから、子どもたちには分かるんです。「あっ、保健室に魔女がいる」って。魔女だったら大丈夫なんです。他の先生たちは世俗の人だけれど、保健室には魔女がいて、世俗の価値観とは違う価値観で働いている。

 ですから、司書も「図書室に魔女がいる」というふうに子どもたちが感じるようになると、「図書室登校」ということが起きると思うんです。教室には行けない子どもが登校するとまっすぐ図書室に行く。当然そうなるべきなんです。保健室に行くのと同じように、図書室にまっすぐ行って、そこで本を読んで終日過ごす子が出てきても当たり前なんです。みなさんはそういう子どもたちを歓待するのがお仕事です。だってみなさんはゲートキーパーなんですから。

 ゲートキーパーは異界に通じる、外部に通じる扉を守る人です。現世の現実的な価値観が通用しない世界がある。そういう世界があること、その「地下二階」に下りて、そこで「この世ならざるもの」と遭遇することが子どもたちにもできる。それを支援するのがゲートキーパーの仕事です。子どもたちが地下二階に入りっぱなしになると、それはそれで危険なことですから、制限時間を超えたらそっと現世に引き戻す。そのあたりの手際がゲートキーパーの腕の見せ所です。

 僕が道場で教えていることも実はそういうことなんです。少年部は小さい子は四歳から来ています。子どもたちに何を教えるか。武道をやると礼儀正しくなるとか愛国心が涵養されるというようなことを言う馬鹿がいますけれど、そんなことを教えているわけじゃない。武道の修行をして、愛国心なんか身につくわけがない。国民国家なんていう「せこい話」をこっちはしてるんじゃないんです。どうやって「鬼神」に仕えるかという話をしているんです。

 道場で教えることは、とりあえず一つだけでいい。それは子どもたちに「超越的なもの」に対して敬意を持つことです。道場に入るとき、正面に向かってきちんと座礼をすること。

 僕がどうして個人で道場を作ったかというと、公共の体育館には神棚がないからなんです。凱風館にはもちろん神棚があります。神棚とか仏壇とか十字架は外部への通路なわけですから、ある意味でこれほど公共性が高いものって他にないのです。そこには現世の価値観が通じないものがある。それに対しては敬意を表する。敬意を表するというのは「おのれの理解も共感も絶したものに対してはとりあえず適切な距離をとる」ということです。この作法を身につけること、それが武道を学ぶことのかんどころだと思います。

 僕は道場に入って稽古を始める前に必ず「お願いします」、終わったら「ありがとうございました」と言います。これは僕が先に言いいます。僕が師範で、前に並んでいるのは弟子たちなんですけど、弟子が「お願いします」と頭を下げるので、僕が「おう、これから教えてやるぜ」というんじゃないんです。「教えてくださってありがとうございました」じゃないんです。僕の「お願いします」は道場に向かって言っているんです。これからしばらくの間、ここで武道の稽古をします、どうぞよい稽古ができますように、誰も怪我をしませんように、どうぞここにいる門人たちをお守りください、道場に懇願しているわけです。

 それは野球のピッチャーがプレーボールのときに、帽子を脱いでホームベースに一礼するのと同じです。あれは別にアンパイヤに向かってお辞儀して、ストライクゾーン甘くしてくださいと頼んでいるわけじゃないです。あの一礼は to the ballto the fieldの一礼なんです。これから9イニング試合をしますが、どうぞ素晴らしいボールゲームができますようにと祈っているわけです。

 道場での礼もそれと同じなんです。これからどうぞよい稽古ができますように、といって一礼する。そういう「場に対する敬意」って絶対必要なんです。それだけは子どもたちにも口やかましく教えます。僕に対して敬意を表する必要はない。僕は道場におけるゲートキーパーですから、「この世ならざるもの」とかかわるときに、どうすればいいのか、それについて先人から伝えられた作法を多少知ってる。だから、僕の言うことを聴きなさいというわけです。山登りをするときに、案内人の言うことを聴きなさいというのと同じです。素人が勝手な行動をすると非常に危険な目に遭うことがあるから。

 

 僕は朝起きるとまず一番に道場に出て、扉を開けて、一礼してから、祝詞と般若心経と不動明王の真言を唱えてから「臨兵闘者皆陣烈在前」と九字を切って道場を霊的に清めます。それが僕の毎日朝のお務めです。ゲートキーパーですからね。